竹取物語 を読む
隠者文学つながりで、今回は「竹取物語」について書きます。 かぐや姫は月の都の住人で、何らかの罪を得て、一定期間地球の日本国に謂わば島流しにされた。物語の後半でかぐや姫の出自が明らかにされる。世界中に竹取物語と類似の説話が数多くあることから、日本で成立したから日本が舞台の物語になっているだけで、物語作者は外国での同類の説話についても知識を持っていたに相違ない。 全体を通して顕著な特徴を挙げれば、地上の人間に対する徹底した蔑視、軽蔑が上げられるだろう。なかんずく天皇を頂点とする貴族社会に対する憎悪にも似た感情が、この物語からは透けて見えるのだ。これは作者が体制側の人間ではなく、何らかの理由で表舞台からドロップアウトさせられた人間、つまりは隠者的な面影が彷彿と浮かび上がって来る事と、ぴったりと合致する。 女子供のパスタイムという他愛もない対象に、自分の持てる学識と文学的な教養の全てを傾注する。物語とは発生の当初から限りなく豊かな可能性を孕んで、自然発生的に世間に広まった。実に、我が国はこの物語の宝庫であり、言霊がこの上もなく繁栄し賑わったお国柄なのでありました。 中でもこの「かぐや姫」の物語は、物語の出て来初めの祖と讃えられた、傑作中の傑作でありました。 貴人たちが挙って絶世の美女を得たいと争う。物語としてこれ以上に素晴らしいテーマは他になく、恐らく数千、数万のストーリーが名人と称して良い無名の作家たちによって、紡がれていたに相違ない。 現在我々が目にしている高度に完成度の高い文章に至るまでには、様々な加筆訂正、そいて増補が行われているわけであるが、読者が作者の作意に誘われて、おのずから物語の世界を広め、質を高めるという作業が付加される。個人から始まってはいるが、人々の共通の宝物として成長を遂げる。物語においては個人名など何ほどの価値も持たない。楽しくて、愉快で、めっぽう面白い。それだけの働きをしてくれれば十分だ。そうした共通の認識がそれこそ自然に生まれた。 この傑作から、傑作の頂点を築く「源氏物語」が生まれ出て来るのは必然であったのだ。実に、有難いお国柄ではありませんか。 かぐや姫のかぐやは、光るように美しいと言う形容詞であり、源氏物語の主人公源氏も光ると頭に形容詞が付けられている。最高の美しさ、この上ない魅力を表すのが、大空に輝く太陽であり、月であり、星々であったところから、大人から子供まで簡明で解り易い形容詞として広く用いられたわけであろう。 昔話の主人公の代表格である桃太郎は、川から流れてきた桃から生まれている。お婆さんが洗濯に行って大きな桃を拾う。桃から生まれた桃太郎が成人して鬼退治に鬼ヶ島に、悪い鬼を退治に出かける。誰もが子供の頃から親しんできた御伽噺で、単純明快なストーリー性で、ひたすら明るく、健康的であります。 これに対して、竹から生まれたかぐや姫の方は、女性が主人公ということもあるのでしょうが、基本的に性格を異にしています。何故でしょうか? 私は男女の結婚と、それにまつわる求婚譚が中心のテーマであることが、その大きな理由であると思います。 絶世の美女に群がり集まる男性陣。その代表格として当時の貴公子五人と、最後には時の帝が求愛・求婚するが、結局全員が袖にされ、振られてしまう。 この当時を代表する貴公子たちが揃いも揃って腰抜けであり、卑怯この上ない、そして実に間抜けな策略家として描かれている。女性の美に目がくらんで翻弄されている男ほど無様な者はない。どの様な聖人君子だって、同様の立場に陥れば、三枚目役を逃れられない。神通力を得た久米の仙人ですら、洗濯をする若い女の白い肉感的な脛を、ちらりと目にしただけで凡夫と化して、地上に落下している。 君子は危うきに近づかず、で最初から女人を禁制にして、危うきに近づこうにも近づけないように、工夫が施されている。 お釈迦様は世俗にあった時には妻帯して子供まで儲けているし、修行生活に入ってからも平気で娼婦たちと語らいを持っている。栴檀は双葉より芳しとか、本物の聖人君子ともなれば我々凡人とは、生まれながらにして出来が違うわけでありましょう。 所で、竹取物語ですが、私の今現在の興味関心からすれば、誕生と結婚と死別と言う三つのテーマからなる人生論説話として、読んでみたい。 かぐや姫の生まれた竹は、強靭な生命力、旺盛な繁殖力、しなやかな弾力性などを主たる特徴とする植物であり、それ故に呪術力を持つと考えられていた。帝が実力行使してかぐや姫を捕獲しようとすると、姫は「影となって」姿を消してしまう。呪術を行使したのだ。 かぐや姫は月の世界の住人であったと同時に、地上では生命力の強い竹の精霊でもあった。それ故に彼女を拾って育てあげた翁夫婦を富豪の長者にまで、運勢を押し上げている。また、美貌の娘を持つ事で、世界中の超有名人にまでしてしまった。 竹取の翁は、家業である竹に一心不乱に奉仕する事で、誰も成し得なかった偉業を、易々と成し遂げるにいたる。 結婚のテーマの解剖、と言うと大袈裟ですが、相手を得ようとするならば、徹底的に相手を拒否すべし。これが、私などがこの物語から受け取る教訓であります。男も、女も、相手を拒絶しまくる。これが恋の極意であるようですよ。異論のあるお方は、是非ともご自身の戦略でお遣りください。これは私の受け取り方で、私には素直に受け取れるやり方だと思われたのです。俗に言うではありませんか、見るな、見るな、は「見ろ、見ろ」の催促だと。言うな、と言われれば、つい言いたくなるのが人情の自然でありますからね。 此処で、私の場合を申し上げましょうか。若くて素敵な美女が、向こうから私の懐に飛び込んで来た。私が徹底的に相手を無視したからです。と言うのは、結果としてそうなったまでで、私が極上の技巧を弄して大魚を射止めた訳ではありません。出会った頃の私は29歳で、妻の悦子は20歳と年の差が大きかったし、そもそも恋愛の対象としては年下はあまり関心の中央にはなかった。だから、いい人だなとは感じていても、彼女に相応しい若者が大勢いると思っていたし、何か困ったことがあるのなら、相談相手ぐらいにはなれそうだと、漠然と考えていた。そこへ突然、「相談したいことある」と悦子から言われた。仕事も忙しかったが、私は自分で言うのも何なのですが、根っからのお人好しですから、すぐに応じて、多分恋の相談ではないかぐらいには思ったのですが、まさかその悩みの張本人が、私自身だったとは、思いも寄りませんでした。後から、悦子と結ばれてから振り返ってみると、私はそれ以外の方法では絶対に、と言って良いぐらいに手に入れることは出来なかった相手を、まんまと労せずして捕獲していた。それも、終始、恋愛対象から度外視していたから、向こうから見れば、徹底的に無視し尽くしたお蔭で。 こういうのを、瓢箪から駒というのであろう。 恋の駆け引きという言葉がありますが、恋には駆け引きは通用しない。恋は思案の外という諺もありますね。駆け引きをする程度の恋愛は、本物ではないと、先人は教えているのでしょう。 さて、三番目の死別に入ります。月からの迎えが来て、帝が遣わした二千の軍隊も役に立たず、かぐや姫は月の世界へと旅立って行く。死という厳粛な現象を前にしては、人間の身では手の施しようもない。ただ芸もなく、呆然とするのみ。喩え、最高権力者であっても。これは永遠に変わらない事実として我々生きとし生ける者の前に置かれている。不老不死の妙薬は何処にも見いだせない侭で…。 然らば、私たちは如何に死と対峙し、身を処したらよいのか。何も出来はしない、ただ徒に茫然自失するのみ。 で、私はこう考える。それで良いのだ、と。どう格好をつけようと、所詮は茫然自失するだけなら、神様が与えてくださっている如くに、すればよい。 私は不幸にして愛妻の悦子に先立たれている。胃がんが原因だった。最新の医学と、悦子が心底信じて頼りにしていた霊能師の篤い祈祷も受けている。しかし、結果は劇的な回復、病気平癒というわけにはいかなかった。延命治療なら受けないほうがましだと言って、都心の大病院へ通うのをやめてしまった。そして三郷にあるホスピスを終の場所ときめて、それからはまるでその病院へ通うのが楽しみであるかのごとくに、私に付き添われてしばらく往復を繰り返した。「私は元が田舎者だから、こういう交通不便な電車やバスを乗り継いだ小旅行が好きなの」と、少女の様な微笑みを浮かべていたことを、忘れずにいる。私は悦子の死病を告知されて以来、ずっと呆然とし、自失してなすところを知らない、と言ったところであったが、あたかも嬉々として楽しい事を待ってでもいるかのような悦子の姿には、実際驚かされた。 思うに、悦子はこうした最後を予感していたのであろう。人生で最大の喜びを満喫し終えた満足感を味わった後に、何が残されていようか。いや、残されているはずなどない。ならば、残された貴重な時を最愛の夫と二人きりで過ごしたい。あの世には、また、再会したい父親、母親、その他地上で大好きだった人々が自分が追いかけて来るのを、首を長くして待っていてくれるのだ。永訣の悲しみはほんの一時のことにしか過ぎないもの。こんなにもかけがえのない時間を、悲しみの涙だけで濁らせたくはない。 実際に悦子の言葉として聞いたわけではないが、彼女の振る舞いと、表情から、私は以心伝心でそうした意図を汲み取っていた。実際に、彼女の最後の数ヶ月は異様と言えば異様だった。つき切りの私以外は偶に訪問して来る長男夫婦と孫、そして次男以外には一切会おうとはしないで、誰にも面会しようとはしなかった。電話の会話だけは、痛み止めのモルヒネがよく聞いていて、調子の良い時にだけ、まるで健康者そのものの元気な声を出して、話をしていたっけ。 こうして書いていると、喜びと悲しみが交錯した複雑な感情に捉えられて、限がなくなってしまう。だから止めにしましょう。 竹取物語の鑑賞は、原文について、じっくりと味読なさって下さい。テーマが一貫していて、ストーリーが単純なので、古文としても非常に解りやすく、注解などなくともすらすらと読み進むことが可能です。ですから、現代語訳でではなく、原典でお読み下さい。ニュアンスの細部が、粗筋だけでは伝え得ない何かを、 what ではなく how の妙味を教えてくれる筈ですから。是非とも原文を、お願い申し上げます。それでは、良いお年を! かぐや姫は今なお月の世界で、あなた様の健康と、御長寿を祈願しているに相違ありませんよ。