近松の作品を読む その七十六
ええ、卑怯なりと引き寄せれば、わっと言って手を合わせ、許してたべ、堪えてたべ、明日からは大人しく月代も剃り申さん、灸(やいと)も据えましょう。さても邪険な母上様や、助けてたべ父上様と息を限りに泣き喚く。 おお、道理よ、さりながら、殺す母が殺さなくとも、助ける父御に殺されるぞ。あれ見よ、兄も大人しく死んだので、おことや母も死ななくては父への言い訳はない。愛しい者よ、よく聞けと、勧めた所が聞き入れて、ああ、それならば死にましょう、父上よ、さらばと言い捨てて、兄の死骸に寄りかかり打ちあおのいた顔を見て、何処に刀を当てるべきかと阿古屋は目も暮れ、手も萎えてて、まろび伏してぞ嘆いていたが、ええ、今はかなうまじ、必ず前世の約束と思い母をば恨むなよよ、おっつけ行くぞ、南無阿弥陀仏、と心許(胸元、胸先)を刺し通し、さあ、今は恨みを晴らし給え、迎え給え、御仏と刀を喉に押し当て兄弟の死骸の上にかっぱと伏し、共に空しくなり給う。さても是非ない風情である。 景清は身を悶え、泣けど叫べど甲斐はない。神や仏は無い世かな。さりとては許してくれよ、やれ兄弟よ、我が妻よと、鬼を欺く景清も、声を挙げてぞ泣いている。物の哀れの限りであるよ。 かくとは知らないで伊庭の十蔵、梶原の取り成しで少々勲功に預かり、若党小者を大勢連れて物見遊山から帰り、この體(てい)を見て、肝を潰し、これはさてしなしたり、しなしたり(しまった、しくじったぞ)。不憫の事を見る物かな、これ侍共(さむらいども)、我はかくのごとく恩賞を受けて栄耀栄華に栄えているが、彼奴等を世にあらせんため(世間で安楽に暮らさせる為に)この頃方々を尋ねたのだが、行き方が知れなかったのだが、さては何者ぞ、偏執(へんしゅう、しつこい恨み、執念)を起こして害したのか。ただしは大宮司の計らいと覚えたぞ。よし、何にもせよなお景清には言い分が有る。先ず先ず死骸を取り置けと傍らに葬らせ、牢屋に向かって立ちはだかり、これさ、妹の聟殿、いっかに恨みがあればとて、現在の妻子を目前に殺させ、腕がかなわなかったなら(自由にならないなら)など生き骨(声の侮語)でも立てなかったのだ。 内々は御邊の命を貰い受けて出家させようと思っていたのだが、最早、ほっても(どうしても)ならぬならぬ、侍畜生、大戯(たわ)け、といかつ(暴言、いかつい事)を吐いて申したのだ。 景清はくっくと噴き出して、こりゃ狼狽え者め、あの者どもは己の貪欲心を悲しんで自害したのだが知らないか。それさえあるに(その上に)うぬめが口から侍畜生とは誰の事だ、命を惜しむほどであるならばべろべろ(へろへろも、軟弱なの形容)柱の五十や百はこの景清が物の数と思うか。心中(しんじゅう)に観音経を読誦する嬉しさで慰み半分に牢舎しているのだ。それを緩怠(かんたい、無礼)過ぎる戯言を吐き、二言(にごん)を吐いたならば掴み挫(ひし)いで捨ててやると、はったと睨み申された。 十蔵はかんらかんらと笑い、その縛(いましめ)に遇いながら某を掴もうとは腕無しのふりずんばい(諺、腕のない者がつぶてをなげる、不可能な譬え。ふりずんばい、は竿の先の糸に小石をつけて投げる遊び)、片腹が痛い、事が可笑しいぞよ。幸いこの頃けんびきが痛いのでちっと掴んで貰いたいものだと、空うそぶいていたのだった。 景清は腹に据え兼ねて、いで物見せんと言いもあえず、南無千手千眼生々世々(なむせんじゅせんげんしょうしょうせせ)、一聞名號滅重罪大慈大悲観音力(いちもんみょうごうめつじゅうざいだいじだいひかんのんりき)と、金剛力を出してえいやっと身ぶるいすると、大釘大縄がはらはらずんど切れてのいた。 閂(かんぬき)取って押しゆがめ、扉をかっぱと踏み倒し、大手を広げて躍り出た。そして十蔵を八方に追い回したのは荒れたる夜叉の如くである。 群がり掛かる若党仲間ををはらりはらりと蹴り倒し、蹴り倒し、十蔵を掻い掴んで取って押っぷし背骨も折れよどうど踏みつけて、何と景清を訴人して御褒美に預かり栄華と言うのはこの事か。と、二つ三つと踏みつければ、のう、悲しや、骨も砕けて息も絶え入り候。御慈悲に命を助けて下されと声を上げて嘆いたのだ。 景清、手を叩き打ち笑い、某が褒美としては広い国をとらせよう、と両足を取って逆さに引き上げ、肩を踏まえてえいやっと裂いたところ、胴中から真二つにさっと裂けてしまった。 心地よし、気味よしと弓手馬手(左手と右手、左右)にからりと捨てて、さあ、し済ましたり、この上は関東にぞ落ち行かん。いや、西国へや立ち行かんかと、行きつ戻りつ戻りつ行きつ、一町ほどは走ったのだが、いやいや、この度落ち失せたならば、又大宮司や小野の姫が憂き目を見るのは必定と思いを定めて立ち帰り、元の牢屋に走り入り内から閂をしとと締め、千筋の縄を身に纏いさあらぬ體(てい)にて普門品(ふもんぼん)を読誦の声はおのずから即身菩薩の変化であろうと、見物の皆が奇異の思いをなしたのだ。 第 五 右大将頼朝公は南都の大仏御再興なされて、既に成就と訴えれば、供養の報謝に急ぎ大赦を行うべしと天が下の科人(とがにん)、京鎌倉の牢を開いて、残らず御免なされたのだ。 中でも悪七兵衛景清は大事の朝敵重罪なれば助けるのに所もなく、佐々木の四郎に命じて遂に首をはねられて今は四海泰平なり。 大仏供養御聴聞あるべしと諸国の大名を御供にして南都に御下向なされる。路次(ろし、道中)の行列が華やかである。 既に我が君が巨椋(おぐら)堤にさしかかり給う時に、畠山の重忠が息をはかりに(息の続く限りに)馳せ来たって、御馬の前に膝ま付き、さても悪七兵衛景清は御成敗の由を承り候が、いまだに恙無く牢の内に罷りあり候、一大事の囚人なれば早速首を刎ねられ然るべく候わんと謹んで申し上げた。 頼朝が聞し召して、不思議の事を申すものかな、景清は佐々木の四郎に申しつけて一昨日の暮方に首を討たせ、即ちその首を頼朝が見参して獄門に懸けさせたのだが、僻事であったのかと仰せなされた。 重忠は重ねて、その段は存ぜず候えども、重忠は今朝に景清の生き顔を確かに見て参りました。と、言い終わらないうちに佐々木の四郎がつっと出て、いや、これ畠山殿、筋無きことをな申されそ。その景清は某が仰せを承り、この自分高綱が手にかけて首を刎ね、我が君の実検に供え、三條縄手に獄門にかけて候物を、景清が二人有るものか。近頃粗忽千万と嘲笑って申された。 尤も、尤も、御分が手にかけたであろう。又、重忠が確かに見て候は如何に。 高綱は色を違えて、はて、埒もない事。一度切ったる景清が蘇るべきようもなし。それは定めて血迷って何をかな見られつらん。ただしは寝惚れて夢をば見たのか、慌てたのか。 いやさ、何分が狼狽えて、由無き者を景清と思い斬ったのか、夢を見たのか、慌てたのか、これ目を覚まして思案せよ。と、気色変わって争いける。 頼朝は段々と聞し召して、如何様、佐々木と畠山は粗忽有る人ではない。不思議千万、晴れやらず、いで、これより取って返し、頼朝が直々に見分けるべし。各々静まれ、静まれと御馬の鼻を立て直して都に帰り給いける。 去るほどに三條縄手に景清の首を切りかけ、平家の一族謀反の棟梁、悪七兵衛景清と高札を添えてある。 頼朝が立ち寄って御覧有り、高綱重忠を招き寄せて、これ見られよと仰せなされた。 重忠なおも不審が晴れず、諸大名が立ちかかりよくよく見れば、いままで景清の首と見えていた物が忽ちに光明赫奕(こうみょうかくやく)として千手観音の御首と変じ給いける、歴劫(ちゃっこう、どれ程に長く考えても)不思議ぞ有難い。 しかっし(然りし)所に清水の大衆達が我も我もと馳せ参じて、さても一昨日の夜中より仏前の蔀(しとみ、格子に板を張り、今日の雨戸の用をなすもの)が夫々(それぞれ)に開いて候ゆえに、もしや盗人の業であろうかと御戸を開いて候ところ、観音の御首が切れて失せさせ給う。切り口からは血が流れて禮盤(らいばん、本尊に礼拝する際に上がる高い檀)長床(ながとこ、寺院の板敷の上に長く畳を敷いて僧侶達が座る所)が朱に染(そ)み、勿体なき御風情に拝まされ候故に、驚き入って御注進申し上げ候と、事の次第を申し上げれば、君を始め奉り畠山も高綱も、供奉の上下がおしなべて、あっと感じるばかりなのであった。 君は信心の感涙を流させ給い、まことや、景清は年来清水の観世音を信じ奉り、十七の春から三十七の今日まで毎日三十三巻の普門品を読誦懈怠なく修行せしと聞き及んでいるが疑いもなく観世音が兵衛の命に代えさせられた有難さよ。と、両手を合わさせなされたので、僧俗男女下々まで皆が礼拝恭敬(らいはいくぎょう)して涙を流さない者とてもない。 重ねての御諚(おおせ)にはこれでは如何であろうか、勿体無い。急ぎ千人の僧を供養して、壹万座の護摩を焚かせ、御首(おくし)を継ぎ奉れ。法事の上で、景清にも対面致そう。 いざ、頼朝も参詣せんと、御身を清め、仏の御首(くし)を直垂の御袖に受け入れて、清水寺への御参詣は稀であったと聞こえている。 枯れたる木にも花が咲く千年の誓いが有難い。 かくて頼朝、御法事も事終わり、仏の御首を継ぎ参らせて宿坊に入られた。 時に佐々木と畠山が景清夫婦を伴って御前に出て参った。 頼朝が御覧じて、珍しや景清、我を平家の敵と思い討つべき志、神妙、神妙、尤も武士の勢い、げにそうも有るべきであろう。しかれば、頼朝にとっては御邊はまた敵であり切って捨てるべき者ではあるが、汝が身には観世音が入り換わりますゆえに、二度(ふたたび)誅すれば観音の御首を二度討つ道理だ。勿体無し、勿体無し。もし又、頼朝の運が尽きて御邊に討たれるものならば、観世音の御手にかかったものと思うべきだろう。この上は助けて置き、日向の国宮崎の庄を当て行うと御懇情(こんせい、懇ろな情)の御言葉に御判を添えて給わったのだ。 景清は涙を止め兼ねて、誠に身に余りたる御諚の段、生々世々(しょうじょうよよ)に有難く、魂に通って覚え候。かく情けある我が君とは知らずに狙い申した景清の所存の程が悔しいと、御前であるのを打ち忘れて声を上げてぞ泣いている。 さて、土器(かわらけ)を賜り、諸国の大名が残り無く皆盃をさし給う。 重忠が仰せけるは、かかる目出度き折と言い、かつうは我が君を御慰め為に、和殿、屋島ににての高名の様子を語りて聞かせよ。内々に君も御所望なりしぞ。平に平に(是非に)と有ったので、頼朝公を始め参らせて、満座の人々が一同に早疾く疾くと望まれた。 景清は辞するに及ばねば、袴の裾を高く取り、御前に式台して、過ぎし昔を語ったのだ。 いで、その頃は寿永三年三月下旬の事であった。平家は船に源氏は陸(くが)、両陣を海岸で分けて互いに勝負を決っせんと欲す。能登の守教経の給うよう、去年播磨の室山備中の水島、鵯(ひよどり)越えに至るまで一度も味方の味方の利はなかった。ひとえに義経の謀がいみじかったからである。如何にもして、九郎を討たん事こそあらまほしきとの給う。 景清は心で思った、判官なればとて鬼神にてもあらばこそ、命を捨ててかかれば易(やす)いであろう。そう教経に最後の暇乞い、陸に上がれば源氏の兵(つわもの)が余すまいぞと馳せ向かった。 景清は是を見て、ものものしやと、夕日影に打ち物をひらめかせて切ってかかれば、堪えずしては向いたる兵は四方にぱっと逃げたのだ。さもしや方々よ、さもしや方々よ、源平の互いが見る目も恥ずかしい。一人を止めん事は案の内(思いの儘である、容易い)、打ち物を小脇に抱えて、某は平家の侍、悪七兵衛景清だと名乗りかけ、名乗りかけて、手取りにせんとて追いかけて行く。 三保谷の着ていた冑(かぶと)のしころを取り外し取り外して、二三度は逃げ延びたのだが、思う敵なので、逃さないと飛び掛かって冑を押っ取り、えいやっと引く程にしころは切れて此方に止まれば主は先に逃げ延びた。遥かに隔ててから、立ち帰って、さるにても汝は恐ろしいぞ、腕が強いと言ったので、景清は三保谷の首の骨こそが強いと笑い、左右に退いたのだ。 昔を忘れない物語、恥ずかしく候と言いければ、人々は一度にどっと感じたのだ。 かくて我が君が座うぃ立って、大名小名が続いて座を立ち給う。 景清は君の御後姿をつくづくと見て、腰の刀をすらりと抜き、一文字に飛び掛かった。おのおのがこれはと色をなして太刀の柄に手を掛けた所、景清、し去って刀を捨て、五体を投げうって涙を流し、はっあ、南無三宝、浅ましや。いづれも聞き給われ。かくも有難き御恩賞を受けながら、凡夫心の悲しさは昔に返る恨みの一念、御姿を見申し候えば主君の敵なるものをと、当座の御恩ははや忘れて、尾籠の振る舞い面目なや。真っ平御免を被らん、まことに人の習いにて、心に任せぬ人心、今より後も我と我が身を諫めたとしても君を拝む度毎に、よもこの所存は止み申さず。却って仇となり申さん。とかくこの両目があるゆえなれば、今から君を見ぬようにと、言いもあえぬのに差し添えを抜いて両の目を刳(く)り出して御前に差し出して、頭をうなだれて居たのだった。 頼朝は甚だ御感有って、前代未聞の侍かな。平家の御恩を忘れぬ如く、又、頼朝の恩をも忘れずに、末世に忠を尽くすべき仁義の勇士だ。武士の手本は景清だと数の御褒美浅からず、鎌倉を指して入り給えば、なお景清は観音に三万三千三百巻の普門品を読誦して、日向の国を本領して悦び悦び退出したのだ。 なおなお、源氏の御繁盛と御静謐の初めだと皆が万歳を唱えたのだ。