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「吾は唯、足るを知るのみ」という言葉がありますが
これは禅寺などの庭にある岩石に掘り込まれている場合があり 禅的な最高の境地を表現したもの。難行苦行の末に漸く 辿り着く事のできた「悟り」、それは、何のことはない、気づいてみたら 自分は最初から何も不足など無かった。自分は必要にして十分な 幸福の条件を身に付けてこの世に誕生していたのだ。足りない物は 一つもない。堅実で確かな努力を積み重ねる事で、幸福を シッカリと自分の物にする。それだけが自分に残された課題だった。 ざっと、まあ、こういった意味合いの事を表現した含蓄のある至言です。 しかし、現実には十人のうちで一体何人の人が幸福を実感し 希望に満ちた毎日を送ることができているでしょう、とても心配ですね。 世界の最長寿国となって、人類の長年にわたる夢を実現したかに見える 今日の日本ですが、実感としてはどんなものなのでしょうか? 死という「恐るべきもの」から可能な限り距離を置き、生そのものを 享受する。しかし、そこには数量のみがクローズ・アップされ、肝心な 質や内容のほうが蔑ろにされている嫌いが無いだろうか。そもそも死は 忌み嫌うだけの対象なのだろうか。そうゆう疑問が湧いてきますね。 最近の医学は、細胞レベルでの死の効用を明確に説明しています。 それは細胞の自殺という現象。そもそも二分割だけを繰り返して人体 を完成させるためには、細胞自らが自分を消滅させるアポトーシスが 不可欠だった。このように生は死を積極的に利用する智恵をもともと 備え持っていたわけですね。生は死によってその健全なあり方を 調節するものであり、死はまた生によってこそ保証されている。つまり 持ちつ持たれつ、の相互補完の不即不離の円環をなして両立出来ている。 私の申し上げたい事は、徒に死を恐れるだけでなく、この様な死に対する 信頼を揺るぎない物とし、その時が来た時には安心して死に包み込まれる 生者としての正しい心構えについて、皆様方の注意と関心を引くこと。 それが限りある生を豊かに、有意義なものにしてくれる筈と信ずるから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月29日 22時08分37秒
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