2013/01/23(水)15:12
「バカを磨け」― 幸せという義務・その二十二回目
9 いびつに歪められている子供・その五
渥美さんの話を始めたのは、次のことを言いたかったからです。
贔屓の引き倒し、という言葉がありますね。相手に対して尋常ではない
愛情を感じているからこそ、その強い愛情が災いして、却って、当の
相手にとってはとても辛い仕打ちを強いてしまう。結果から見れば
非常に酷(むご)い事を強いている癖に、当事者にはその自覚がまるでない。
そんな世間にはよくあることが、親と子の間にありはしないか。いえ、
私はあると思っている。それも大問題があるのだと主張したいのですよ。
親の側、大人の側の「贔屓の引き倒し」的愛情の行使が、子供たちの
あり方に悪影響を及ぼし、結果、いびつに歪められた子供たちが
本当に目に余るほどに、数多く生み出されている。そんな風に言明したい。
声を大にして言いたいのであります、はい。
外国の詩人は、「子供は親達の所有物ではない。神からの預りもの」だ
と歌いました。日本にも、昔は「子供は天からの授かりもの」とする
正しい考え方が生きていましたが、今日では全くの死語と化してしまった
のでしょうか。自分の勝手な考え一つでどうにでもなる占有物と見做して、
自信のない自らの「惨め」な半生から引き出した、誤った人生観に
基づいた「偏見」のみを、さながら暴君のようにわが子に強制して、
恥じない。そんな有様が罷り通っていると、私には見えるのです、実に。
子供たちは、何も知らないようでいて、実は何もかも知っている。そう
私が言ったら皆さんは信じては下さらないでしょうか?もしそうなら
先ずご自身の胸にじっと手を当てて、静かに考えてみた下さい……。
如何ですか、少しは御自分がまだ幼い子供だった頃の事を蘇らせることに
成功したでしょうかね。現に、この私は、その様にしたし、その様な
マインドを持って、一人の教師として、また学習塾の講師として生徒達に
接し、一人ひとりの生徒達からどのように教えたらよいかを教えられながら
その「指示・指導」に従って、多大な成果をあげています。要は、子供に対する
大人の側の問題に尽きるのではないでしょうか、本当のところは。
極貧の生活苦に喘ぎ、時には翼があったならばこの世から逃げ出す事が
出来るのに、と嘆きつつも妻と子を心から愛し、この世のどんな素晴らしい
財宝よりも、わが子のほうが勝っていると言い切った万葉歌人・山上憶良の
とても人間臭い想いを、今に生きる私たちはもう一度、よく噛み締めて
味わう必要があるのではないでさようか。因みに、万葉集巻五、802、803を
以下に引用しておきますよ。「子等を思ふ歌一首、序を併せたり― (以下は
古屋の要約です)釈迦如来が口ずから説かれたことには、多くの人々を
等しく思う私の愛情の深さは、わが子を思う深さと同等である。また、愛情の
深さは、子供を思う親の愛情に勝るものはない、とも御釈迦様は仰っておられる。
人民が皆一様に尊崇して止まない大聖ですら、わが子を愛する心をお持ちです。
まして我々一般の者は、誰だって自分の子を可愛いと心底思っているのだ。
瓜食(は)めば 子(こ)ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ 何處(いづく)より 來(きた)りしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(― 美味しい瓜を口にすると、これを子供に食べさせてあげたい
と先ず思う。滅多に食べる事のない栗を食する時には、一層子供を思う。この
強くも烈しい感情は、一体何処からやってくるのだろう。何時だって
胸の中にしっかりと存在していて、夜中に眠っているいる時でさえ
想いが途絶える事は、少しもないのだ)
銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる寶(たから) 子に及(し)かめやも(― この世の最高の財宝とされる、銀・金・宝玉など比べようもないではないか、
わが子という大切な、愛しい寶物に比べたら。全く比較にもならない)