2019/04/12(金)06:49
神慮に依る「野辺地ものがたり」
第 四百二十五 回 目
丁度、アメリカ大陸がコロンブスによって「発見された」如くに、私は奇しくもセリフ劇という
人類にとって最大の福音を齎すに違いない、素晴らしい装置、仕掛を「発見」した。
コロンブスが発見する以前からアメリカ大陸はずっと存在していたのですが、圧倒的な文明を誇
る人類のリーダー的なグループによって、新たに確認された様に、セリフ劇は太古の人類と共に親
しく私達の身近かにあった。ただ、その途轍もなく巨きな可能性の発掘と、啓蒙や宣伝、並びに果
敢なる実践とを愚直に行うのが私・草加の爺であるに過ぎない。
何も事新しく劇・芝居・ドラマに就いて新説を開陳する訣でもない。一応は、そうも言える。
が、実際にはコペルニクス的な大回転、天と地が逆転するに等しい一大変革が起ころうとしてい
る。いや、意図的に劇と人との関係を見直し、人々の生活に思いも、予想もつかなかった大きな
大きな恩恵を与えたい、与えなければいけないと、密かに決意し、徐々に行動を開始しようと目論
んでいるのが現在の私・草加の爺の立ち位置であります。
そして、現在私の前に聳え立っている 目には見えない大きな障害 が厳として存在している。
それは私が説明する以前に誰もが既に理解してしまっている、と言う「思いがけない」事態なので
すが、これがなかなか相手にすると手強い、難敵中の難敵なのであります。
この私だけが感じている頑強な壁とは何かを、落ち着いてご説明いたしましょうか。色々とある
のですが、俳優・役者という役割について、であります。俳優・役者とは何か特殊な人種であると
いった偏見乃至は、先入観念や色眼鏡であります。
端的に言ってしまえば、少なくとも「私の新しく提唱するセリフ劇に於いては」という但し書き
を附けますが、唯の人であります。特別な資格や能力、才能などを必要とはしません。強いて言え
ばただの人にちょっとした善意と努力の継続とを、持って頂ければそれで、それだけで十分なので
す。これが、なかなか分かって頂けない。既に固定観念がみんなの中に出来上がってしまってい
て、それを忘れて貰えないから。
もうひとつあります。従来の芝居・ドラマ・劇で言う観客に関する抜き難い「色眼鏡」でありま
して、観客とは舞台で演じられる劇・芝居・ドラマを見る人、眺める人、せいぜいが鑑賞する者
くらいの認識がせいぜいです。所が、これが大いに違っている。
セリフ劇では従来の観客と区別する為に、仮にゲストと呼んでおきますが、ゲストが劇の場に
於ける真の主役なのであります。それではこの新しい主役は何をするのかと言えば、自分で自分に
治療を施すのです、俳優の手助けを借りて。
ですから、このセリフ劇の場では心の治療が行われるのだと、肝に銘じて認識して頂きたい。
つまり逆に言えば、俳優はゲストのカタルシスという治療の為に劇、乃至は言葉による語り等の
パフォーマンスを行う。そう心得て頂きたい。
以上が、セリフ劇の核心となります。ゲストがメインで、俳優はサブである。この原則をしっか
りと、少なくとも俳優サイドでは、飽くまでも守って頂く必要がある。
これは俳優が重要ではないという意味ではなく、医療の場での医者の役割を担うのですから、非
常に重要且つ大切だと、逆に役目の重大さを強調するものであります。と同時に、従来の役者の
通弊であった独りよがりや、悪しき自己陶酔、乃至、不必要な自己顕示等の悪癖を厳に戒めるもの
でもある。
ここまで来ると、冒頭に私が述べた俳優のイメージと著しく違うのでないかと、違和感を覚える
方が相当数いらっしゃるかと考えますが、もしそうだとすれば私の説明の仕方が、上等でなかった
為に生じたもので、故意にしたものではありません。
俳優の根本精神は善意に始まり善意に終わる。つまりは人間愛の権化が俳優という職能を特徴
づけているので、演技力の巧拙とか、個性の強弱にポイントが有る事を意味しているわけではあり
ません。とかく俳優が陥りやすい、そして演出家とか監督と称される人種の勘違いし易い、謂わば
難所であり陥穽でありますので、念押しして置きますよ。
それから、善意を持つと一口に言いましても、その善意が相手・ゲストに伝わらなくては何もな
りません。善意が十分にゲストの側に伝わり、その結果でゲストの心の中で十全なカタルシスが完
遂するのでなくては、意味がありませんが、それはゲストの反応を直接に確認する事でしか、実現
出来ませんよ。独りよがりは断じて許されない事です。
従って、ゲストの様子を仔細に観察し、時には様々に打診するなどすることが、どうしても不可
欠になります。この辺の事情は、医学上の患者と医師との関係に酷似している。
名医は最初から名医ではありませんで、俗に「何人も患者を殺した末に名医が誕生する」と言わ
れますが、その心は医者の患者に接する心得の全ては、真心をもって接した患者から直接学ぶと
いう事です。医者の一番大切な点は正確な見立てとそれに応じた適切な薬や手当の処方にありま
す。そしてそのほとんど全てが患者からの情報を偏見無しに冷静にキャッチして、総合的に判断す
る事に尽きているのですね。
同様に、俳優はダイレクトに、親身になってゲストに接し、即座にそのゲストが今何を真に必要
としているかを察知し、ベストの台本・詞章・言葉を最上のホスピタリティーを以ってして演じて
見せる、パフォーマンスする。その場合に医者の処方する薬に相当するのが台本・詞章・言葉なの
です。
医者が病気を治すのではなく、適切な投薬が、服用した薬が作用して患者の病気が治るのと同様
に、演じられた台本の内容が適切に作用した時に、ゲストの心のストレスが緩和され、延いては
カタルシスが完了するのですよ、お判りでしょうか。変な言い方をすれば、俳優の手柄ではなくメ
インは台本・詞章・言葉の働きなのでありました。あたかも人体の持つ免疫機能が根本的に健康を
保証しているが如くに。
又、医者は生命そのものを創りだせないし、俳優もストレスそのものを根本から退治することは
出来ない相談ですよ。つまり、人間としての限界が其処には当然に存在する。必要以上に自己の
能力や才能を過信してはいけないし、だからと言って過剰な自己抑制も禁物です。
これも一人の人間としての限界を知り、あたうる限りの可能性を正当に信じ、精進する努力を頭
から否定するものではない。
人は個人としては脆弱で本当に頼りない存在だが、パートナーと結びつくことで最小単位ながら
確固たる安定を得、そのペアーが結び合ってサークルを作り、神に近づく可能性を自分の物とし
た。同様に劇の場に於いても同好の士同士が手を差伸べ、チームワークを形成することで無限の
発展性、将来性を期すことが保証される。実に劇の場こそ工夫次第で人間の理想的な平和を地上に
実現させる、その雛形を眼前に示す本当に素晴らしく、有り難い仕掛であり、装置なのであります
よ、間違いなく。
参加の資格はと問われれば、人であれば誰でも、性別年齢、一切の資格を問わない。そして其処
では誰もが自分を大きく成長させる事が出来るし、仲良く、協力して真の意味のウイン・ウインの
関係を構築するのだ。そういう意味合いでは、地上で最高の祭典・フェステイバルと呼ぶべき歓び
和む場所なのですね、実に。
そもそも人は誰でも一人の役者として生きている。私に例を採れば、私は生涯古屋克征という人
物を演じて舞台を去って行く。誰でもそうです、貴方も、君も、そして何処かの誰かさんも。です
から俳優の役柄を演じるということは、特別な事でも大変な仕事でもないわけです、基本的には。
実人生で与えられている地の役柄とは違った役を、意識的に演じてみる。そうゆう事にしか過ぎ
ない。無自覚でいた役者が自覚した役者に、一時的に変身してみる。無類に面白く、又他人にも
自分自身にも非常に役に立つ、そういう行動でありパフォーマンスなわけですね。
扨てそこで、このセリフ劇を商売として成り立たせ、野辺地の町を活性化させなければいけませ
ん。無類に面白く、町の人だけでなく大勢の人々がこぞってやって来るようにしなければいけな
い。その為にセリフ劇を魅力溢れる娯楽・エンターテインメントに仕立て上げなければ駄目です。
その際にも、セリフ劇の持つユニークな強みは遺憾なく発揮されます。
万国共通語の笑いを前面に押し出し、客を強力に惹きつけるのです。目下の所、私個人としては
チャップリンに匹敵する強力なキャラクターを造形するのが先決と考え、試作品を考案している
最中なのですが、町の人々の御意見なども取り入れてベストな物に仕上げたいと、意欲を燃やして
居る所です。
それと、町興しや地域活性化策の一環として役立てるには、セリフ劇と連携させて町全体で和み
や癒しを目指したメンタリティーの構築も重要です。つまり、町の人同士の親睦・交流の活発化の
促進などをセリフ劇の構築と並行して、乃至はこれを起爆剤として町全体を外部から人々を迎え入
れるホスピタリティー溢れる土地として、大きく心構えを変革していく情熱を新たにする必要も
あるでしょう。いや、その先頭にこれからセリフ劇に携わる人達が立つのだという、強い自覚を
保持して頂けたなら、第一段階としての自前での産業育成事業は成功間違いないと、思われます
よ。
ここで思い出すのは人生の先達としての老人たちの知恵であり、潜在的な力であります。世間の
大きな流れとしては老人たちを人生の重荷、厄介者扱いする風潮が主流でありますが、私はその
老人の一人として声を大にして申し上げたい。老人を頼りにしなさい、と。
確かに、老人は体力的にも精神的にも著しく衰えをみせます。しかしその反面で気力の充実、生
きた智慧の充実その他のプラス面も沢山あるのです。その老人たちを正当に扱わない手はない。ゴ
ミ扱い、余計者扱いされたら、ゴミにもなるし、余計者にもなりましょう。
しかし、上辺だけの敬老精神の掛け声だけではなく、本当の敬老精神、老人を正当に敬う道を
開拓するならば、老人こそは人生の宝の宝庫。単なる言葉だけではなく、無尽蔵な生きた、輝かし
い宝石の数々であることを、セリフ劇の確立のプロセスで如実に証明してみたい。
今、私はそう強く、強く決意を固めても居る。どうぞ、そうした意味からも期待と共に、深甚な
る御支援・御声援を賜りたく、衷心よりお願い申し上げます。