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この年まで生きて来て、強く感じることがある。
それは相互の生きた交流ということだ。当たり前と言えば、これ程当たり前なこともなく、今更何を言 うのだと感じる向きもあろう。が、しかし、である。 人間同士の間での交流でもそうだが、人間と自然や動植物との血の通った、生きた交流が大切だと、し みじみと感じる。一方通行では、結局血の通った本当の交流は生まれないのだ。 神、絶対者との交流でも殊更にそのことを思う。 仏教で、自力とか他力とか言う表現が用いられるが、結局のところ、自力だけでも他力だけでも駄目な のであって、自力の真実と他力の本願(阿弥陀如来の本願)とが正しく合致する機縁が無いと、無意味にな ってしまう。それも、半分と半分ではいけないので、百パーセントと百パーセントのまさしく絶妙な出会 がないと、奇跡の輝きは生まれ出ない。 それと、私が自分をこの世で最高の果報者と規定する時、そこには他者との比較は全く除外されてい る。と言う事は、誰もが皆、等しくこの果報の可能性を身内に蔵して、この世に生まれ出てくるのだと、 いうことを意味する。つまり、誰もが等しく、最高の果報者と実感する「権利と義務」とを有している 事を意味しているのだ。 私は自分のブログで、又教育の実践の場で、他者と比較する事の無意味さを強調して来た。つまり、他 人は他人、自分は自分だということの深い意味合いを、理解して貰いたかったから。 大馬鹿者に生まれた私は、自分の馬鹿さを無自覚のうちに、磨きに、磨きを掛けてきた。その究極の 成れの果てが今の私なのだ。その私が、人生の謂わば総括として、世界で一番の幸福者だと、有難く、勿 体なく感謝を、強く感じている。そういう次第なのです、実のところは。 だから、私は仮に「自分は容貌が醜く生まれついたから、不幸せなのだ」と心底思っている人がいたと したら、私は美容整形で美人に生まれ変わる安易な発想は持たずに、その「ブスさ」に自分の努力によっ て磨きを掛ける事を、断然お薦めする。どうやって磨きを掛けるのかと訊かれたら、生きることに、目前 の自分のなさなければならないことに、ベストを尽くして、一心に努力する。自分を忘れる程に、他人の 為を第一に心掛けて、無我夢中で生きてみる。現在只今に全てを懸けて完全燃焼してみる。それだけの 事。言うは易しく、行うのは決して生易しくはない行動に粉骨砕身、猪突猛進すること。 気がついた時には、その人はいつの間にか、生まれ変わって、ひと皮剥けている事に気づくに相違な い。ブスが美人に変化するのではないが、同じブス振りが相違する。と言うか、同じブスでもどこか味の あるプラス・アルファの何かになるのだ。それを、繰り返し何度も継続しているうちに、最後にはもう一 口にブスなどとは形容出来ない、別の表現が必要なジャンルの魅力ある人へと変身している事実に、周囲 が気付かせてくれる。その周囲の反応によって、醜いアヒルの子は自分が「白鳥の子だった」事実に驚き ながら気付かされる。そういう次第なのだから。 自分はオンリーワンなのだ、最初から。今は最悪と自らを規定した極端な例を上げて、説明したのだ が、大多数が自分を「普通」と見做しているのだから、ただの普通に満足せずに、プラス・アルファの付 く普通を目指せばよい。それはもう普通などとは表現出来ない、或る特別な存在に変化しているに相違な く、ユニークな故に限りなく特別に近い、独自なパーソナリティを持った、魅力ある人に変身・メタモル フォーゼを遂げた別の何者かに、成長を遂げたことを、正しく意味している。 誰もが、自分の努力次第で驚異的な成長が期待できる、大きな可能性を身内に秘めている。生まれなが らそう仕組まれている。生きていることの不思議を実感せずに、何としようか。宝の持ち腐れに終わった ら、宇宙の悲劇ではないだろうか。そう、あなたは、君は神秘に満ち満ちた世界に、今現在、有難くも生 かされてあるのだ。それを、強く信じよう。それを真の信仰心と呼ぶのであるからね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年01月05日 17時28分54秒
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