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年齢を重ねたせいか、最近は神(勿論、私の感じ、又信じてもいる絶対的な存在者を意味するのだが)の私
に対する 演出 の手振りの様なものを、感じることが多い。それは、誠に自然で絶妙であり、人間の演 出家の遠く及ぶ所ではない。その力量は当然ながら、人間離れして傑出しているのだ。 だから、私は自分自身の意思と選択で、自ら自由感を失うことなく、己の欲するままに自在に振舞って 生きている如くに感じている。若い頃から今日に至るまでずっとである。 それでいながら、自分の意志や考え、判断だけではどうしようも無かった「運命・宿命」の如き或る絶 対的な力・影響力に支配されていた。そう、後になって過去を振り返った際に、強く感じるのだ。 自分はあの時に、どうしてあの様な行動を取ってしまったのか。自分ながら不思議な気持ちにさせられ る。つまりは、神の演出の手腕は絶妙を極めているわけだ。 それと同時に或る人生のターニングポイントで、とんでもない失敗・過失を犯すのであるが、それが後 から考えた時には、過失どころか、大切な、欠くべからざる重要な「一歩」であったことを知る。知らさ れて唖然としてしまう。当時の自分は自分が考えていた進路を大きく外れたと、がっくりしていたわけだ が、そのがっかりする失策がなかったならば、今よりは遥かに価値の少ない、袋小路に紛れ込んでいたか も知れないと判明する。実際の話が。 それと、人との出会いという事。これも絶妙のタイミングで、私にとって必要欠くべからざる人と出会 うように「仕組まれていた」のだから。まさに、神業の一語に尽きる。そして、有り難いことだとしみじ み感じるのである。 「大失策」やら「大きなミス」がなかったなら、その後の分に過ぎた僥倖や、素晴らしい人との出会い は起こり得なかったのに相違ない。しかし、当時の私の思いとは別に、運命の歯車は着実に、正確に然る べき方向を目指していた事になる。 禍福は糾える縄の如しと言う。実に複雑微妙な摂理が作用して、私達の人生を興味深く、起伏に富んだ 魅力あるものにしてくれている。 そして出会いは何も人とのそれだけとは限らない。犬や猫との忘れがたい出会いと交流もある。それか らまた、物や植物、風景との出会いもある。 こういう経験があった。若い頃に、桜の花は美しいと人がしばしば言うのを耳にしていた。文章で読ん だこともあった。桜の花が美しくないとは言わないけれど、ことさら桜に限るまいと、漠然と思ってい た。ところがである。或るとき、とても心が落ち込んでいたことがあった。そして、或る住宅街の一角で 極ありふれたソメイヨシノが満開に開花しているのを目にした。すると、突然、何の理由もなく「ああ、 この桜の花は美しい」と感じた。絶対的な美との偶然の出会いである。ああ、桜の花が美しいとは、こう いうことを言うのかと、突然に了解した。そして、春の空を背景にして咲き誇っていた桜花の、何と美し く清楚であったことか…。決して忘れられない。 序でと言っては何だが、人形との奇しき縁についても、述べておこうか。亡き母親が孫たち、私の長男 と次男とのために買ってくれた、高価な五月人形である。もうかれこれ四十年ほど、私の部屋に飾ってあ る。以前はガラスケースに入っていたのだが、今は剥き出しで、私の寝室の窓際に置かれている。置いて あると言うべきなのだが、他人事のように表現したのは、忘れるともなく失念して、普段は過ごしている からなので、有り体にに言えば、捨てるに捨てられずに、剥き出しで放置しているわけである。 私には人形を慈しむ趣味はない。しかしこの人形は、母親の形見でもあり、正直捨てがたい思いでい る。そういう次第で、長年身近にあった物は、もう単なる物では無くなっている。積極的に廃棄する気 になれないので、置いてあるけれども、ある種の愛着の感情は、自ずからに湧いているのだ。 何事も縁があってのこと。消極的にでも、愛は愛であろうから、それなりに大切にしたいと、考えると もなく、考えている次第である。 今回の結論めいた事を書けば、我々は万有引力で引かれあっているいる如くに、愛という絆でしっかり と結びついているのであって、孤独とか、孤絶などという寂しく、絶望的な「思い・情感」は錯覚乃至、 思い違いなのだと理解すべき事なのだ。今は、はっきりとそう思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年01月14日 16時00分29秒
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