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草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2020年01月15日
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昨日の夜、次男夫婦と食事をしながら話題にした、永劫回帰について私なりの見解を述べることから今回

は始めたいと思う。

 言葉としてはフィリードリッヒ・ニーチェが使ったものであるが、当然の如く理論的な反駁も現実にな

されている。が、しかし、である。これに関しても客観的な論証は私にとっては、あまり意味のないこと

なので、極めて個人的な体験から、希望的に永劫回帰を冀求したいものとの、切ない願望をこの言葉に込

めているに過ぎない。

 極めて個人的な体験、それは結婚する前の妻・悦子の私を見た際の「あの意味有りげな視線」に込めら

れた、何とも形容しがたい懐かしさの情感にある。次の瞬間に、悦子に先を越された、そう明瞭にその瞬

間に何事かを悟ったと言うよりは、後になって何度もその当時のことを振り返って、反省的にそのように

感じる。そう表現した方がより正しいのであろうが、今では、私の「先を越された」印象は、妻となった

人の愛情の強さ、大きさに起因するものと考えれれるので、気づきの遅かった私が、ああそうか、悦子は

永劫の時間の中でも、一瞬たりとも私のことを忘れることなく、ずっと思いを温め続けていたのだと、首

肯出来るからだ。悦子の愛情の猛烈さが非凡なのであって、私はその非凡なエネルギーに及ばなかっただ

けで、甘んじて悦子に、その偉大なる愛情のあり方に脱帽すればよいのだ。

 理由とか、原因などといった事柄は、ここでは一切不問に付すべきなのであって、私にとって果報に過

ぎる異様な愛の在り方が実在し、今もなおその存在は継続中なのだという、事実を確認すればよい。

 今生で愛妻を失った悲しみは、永劫の未来の中で再会が保証されている事に比べれば、何ほどのことも

ないのであるから。約束された再会を確信できている以上は、我慢できないことでは決してないのだから

ね、そうでしょう、悦子さん。そして何事も無かったように、綺麗さっぱりと忘れてしまえばよいのだ。

その方が、私のキャラクターとしてはむしろふさわしい、と強がりでも言っておこうか。

 今更、自分の人間としての未熟さや、ヤクザな性格など、反省したり、恐縮したりする必要も、感じさ

せない。それ程に、克征を想う悦子の愛の熱量は度外れに巨大であり、法外なのだから。

 永劫の時間の経過の末に、再び相まみえる時のことを、私たちは既に「経験」してしまっている。それ

を今になってみると、涙が出て止まらない程に、有難く、勿体なく、かたじけない事と、ただただ感謝感

激するばかりなのだ。

 完璧な論理構造を誇る 仏教 的に申せば、一 即 全 なのであるから、無尽蔵な時間の満ち満ちた

永劫の中で、繰り返し回帰する体験は、そのままで一回こっきりの現象として把握しても、真実を枉げて

いるとは言われまい。

 芝居の方でも言うではないか。全てを知っていて、知らぬ気持ちで芝居をするようにと。何度も稽古を

重ねて来て、本番の舞台では初めての如くに演じよ、と。

 夢の如くに感じられる人生でも、生きる我々の心得は、一回こっきりの、実に切実で、大切な時間を生

かされていると心得て、生きるのが正解なのだ。無限に永劫回帰するなどとは、おくびにも出さずにだ。

 そういう意味からも、人生を生きている誰もが、人生を名優として現に生きているのだし、その限りに

おいて正しいのだ。

 だから、だから、悦子さん、再会を確信しながらも、「ただ に、直接に、たった今会えない血の悲し

みを味わっている、惨めで哀れな私の実存は、神によって根本から支持され、保証を、尊い肯定を忝くし

ているというわけなのです。誠に、誠に、誠に、感謝の念に耐えないのであります。

 感謝の念に耐えないのであります。( 蛇足の如くに付記しますが、私一個を祝福するのではなく、生

きとし生きるもの全てを強く肯定する、何者かを、その存在と有難い愛・慈悲の心に向かって深甚なる敬

意と正しい畏怖を感じる気持ちを、以上の如き表現で表したものであります )

 愚かな私の独断と盲信を笑う人がいるのならば、笑うがよいだろうさ。人様の思惑など今の私にはどう

でもよい。そしてこれは、自分だけが幸せならほかの人の事など、どうでもよい、と独善を欲しいままに

する得手勝手な態度や思考とも異なっている。

 自分が現に生きてみた人生が悲しみや、苦しみもひっくるめて、全肯定出来る有難さをフォーカスして

いるのであって、それはそのままで、全人類の祝福に直結するもの。そうした性質のベクトルを見据えて

の発言と自分では心得ている。

 諄い様だが、私は、悦子と出会うまでの私は少なくとも極端に厭世的で暗い人生観を抱懐していた、消

極的な男であった。それが、それこそ手の裏を返したように、楽天的で、両手を上げての人生積極肯定派

へと変身を遂げた、奇跡をいつの間にか成し遂げてしまっていた。知らず知らずの間になのだ。

 実に、驚異であり、摩訶不思議のいたりなので、自分自身が一番に驚いている。実際のところが。

 人生は、生きて、体験してみないと分からないのであります。自分の中の何も変わっていないのに、感

じ方が、受容の態度が百八十度の方向転換をしてしまう。ごく自然な成り行きで。大きな愛情という特効

薬がじわじわと浸透した結果なのだと、後にして自覚すること。

 要するに、驚異、ミラクル、不可思議の連続なのだ。実際の話がである。ああ、嬉しい、楽しい、ワク

ワクとおのずからに胸が躍るようだ。これが真の信仰の、神の御力が、私の場合には、悦子という素晴ら

しい神の使い姫の媒によって開示された不思議なのだった。





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最終更新日  2020年01月15日 15時47分26秒
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