2021/06/22(火)17:48
自分の過去に 習う その八
「越後屋」は松村氏が行きつけの店の一つで、こぢんまりして静かな雰囲気を醸しているので、気楽な
会話を楽しみながら、一杯飲(や)るのには好都合な場所だった。以前にも松村氏に連れられて二三度来た
ことがあった。
カウンターの前に並んで席を占め、二人は日本酒を飲み始めた。一時間ほど経った夜の七時半頃に、ひ
と組の若い男女が入って来た。男は横川であり、俺にも軽く会釈すると、松村氏の脇に腰を下ろした。連
れの女にも俺は見覚えがあったので、一瞬注視すると、その若い女が驚きの声を発した。
「あらっ、公三兄さんじゃありませんか」
女は従妹の明子だった。明子は、俺が大学時代に下宿していた叔母の娘で、俺を呼ぶ時に「公三兄さ
ん」と言うのが当時からの呼び癖であった。
俺も驚いたが、松村氏も横川も同様に意外と行った表情をした。
俺が明子との間柄を二人に話すと、今度は松村氏が横川と明子の取り合わせを説明する番だった。
俺の叔母、つまり明子の母親は銀座で小さなクラブを経営して、自分で店のママをしているが、その叔
母の店の十年来の常連で、その種の店では稀に見る信頼の置ける堅実な客だったようだ。二三年前から一
人娘の明子の結婚相手を探してくれるように、叔母からそれとなく頼まれていたが、明子が去年の春に短
大を卒業したので、今度は本格的に結婚相手の事を考えて欲しいと、叔母から改めて真剣に頼まれたらし
い。それで横川と明子は今年の正月に、松村氏の紹介で知り合ったばかりの関係であった。
「お見合いというような堅苦しいものではなくて、二人の交際のキッカケを作っただけなのですよ、僕
は」
三十分ほどして、横川と明子が店を出て行った後で、松村氏が俺に言った。
二人は松村氏の仲介で見合いをして、目下交際の最中であり、今夜は偶々その交際の謂わば途中報告と
いう形で、松村氏の居る場所に立ち寄ったわけであった。
俺は、叔母が大嫌いであった。いや、正確に言えば、毛嫌いして、好きになれなかったと言うべきかも
かも知れない。母親に幼くして死別した俺は、人一倍母性というものに憧れ、母親的な愛情を渇望してい
た。だから、叔母を知る前の俺は、母親の実の妹だという理由だけで、会ったことのない東京の叔母に密
かな恋慕の情をさえ抱いていた。
俺がその叔母に最初に会ったのは、中学二年の時である。しかし、美しく着飾った若い叔母は俺のイメ
ージと違っていた。確かに微笑を顔に浮かべ、優しい言葉付きで俺に話し掛けてくるのだが、妙に和み難
く、懐に入り込むことを冷たく拒む何かが常に付き纏い、傷つきやすい少年の心を悲しませた。その感じ
を当時の俺は上手く言い表す事ができなかったが、「この人は肉親ではない、赤の他人だ」と思った。叔
母の俺に対する上辺の優しさとは裏腹な、本質的によそよそしく冷淡な態度は、俺が大学に入学して叔母
の家に下宿するようになってからも変わらなかった。
大学時代の俺は極力叔母の生活にかかわり合いを持たないように努めた。叔母が銀座でクラブを経営し
ているらしいくらいは知っていても、店の名前や場所さえ知らずに過ぎた。だから、叔母の一人娘である
従妹の明子の生活にも殆ど、関心がなかった。
当時、叔母の家の住人と言えば、叔母と明子とお手伝いの女性、それに俺の四人。俺が大学生になって
から郷里の父親から聞かされたのだが、叔母は明子の父親とは死別したのではなく、明子が生まれてから
二年程で協議離婚したのだと言う。
片親のない寂しさを知る俺は、自分の体験から明子に同情していた。まだ中学生だった、どこか陰のあ
る少女の明子に「公三にいちゃん」と呼ばれる時などは、実の妹に対するような感情にとらわれることも
あった。にも関わらず、叔母に対してと同様に、明子を本当には好きになれなかった。
明子に会うのは何年ぶりだろうか、すっかり娘らしくなって、結構美しくもなっている。
「そうか、あなたがあのママの甥御さんだったとは…、本当に奇遇ですね」
上手くいっている二人の様子に、松村氏はすっかり満足しきっているようなのだが、明子の人となりを
知っている俺は、早晩、明子が横川から愛想を尽かされるだろうと、心の中で思った。叔母は現在の職業
がそうさせたのか、生来そういう性格だったのか、徹底した物質主義・金銭至上の亡者だった。
叔母はこの世を渡る上で、信ずるにたるものは お金 と、お金に裏打ちされた権力だけであるとい
う、確固不抜の信念を以て、自分の全行動を貫き通している。
従って、叔母が他人を評価する基準は目に見える容貌・肩書き・社会的な地位・権力・財力・収入とか
いう 外見 だけである。
叔母の娘である明子はもっと徹底して金銭中心主義の考え方に、凝り固まっている。明子は愛情とか善
意・好意と言った精神的なものは、それが具体的な行為や行動となって表現されなければ、一切認めよう
とはしなかった。彼女は自分に百円呉れる者よりは、五百円呉れる者の方が差し引き四百円だけ余計に愛
情を持っていると判定する。そういう意味で、明子の思考の原理は単純であり、且つ明快だった。
叔母や明子の目から見た横川は、そういう意味では理想に近い結婚相手だと言える。横川はハンサムだ
し、長身だ。言葉遣いや物腰が洗練されていて、嫌味がなく、育ちも良い。一流大学出の秀才で、父親は
お堅い金融会社の総務部長、しかも彼は次男だと言う。おまけに、世間での評価の高いテレビ局の幹部候
補生という折り紙付きだ。