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得心がいかないので、夜前に始めて尋ねて参り、噂に相違しない内の諸道具、商品にびっくり致し、姥に
訊いても委しい様子は知らないと申す。 各々も商人、我らも七十八まで商いで食べた者、胴返し(一挙に資金と同額の利益を得ること)の利が あったとは言え儲けるにはそれなりの際限がある。これまでは僅か十両十五両を儲けてさえ、手柄顔に吹 聴して報告して来て喜ばせた惣七め、一人の親に隠すからには、碌な銀とは思われない。段々悪事が募っ てお町内やお家主にも難儀をかけ、その身も人並みな死は出来ない奴、今こう致すのも親の慈悲であり、 邪な銀は身につかないと申す。骨身にしみて思い知らせて、憂き潮、苦しい経験を重ねて正道(しょ うどう)の商いに取り付く心をつけようと、にわかに道具屋に走るやら、古銭買い(古鉄を買い集める者 、屑屋)を呼ぶやら、心がせいてお町内へ無礼(ぶれい)、お家主へ附け届け(お断り)を致さないのは真 っ平、真っ平、幾へにもお詫びごと、貸家札をを出して下さいませ。お家は明けます、明けます、という ばかりで下げるのは金柑頭(ハゲ頭)ばかりなのだ。 御親父(ごしんぷ)の言い分承り届けた、おれそながら惣七殿には口合い家請け(家を借りる時に口を 聞き、保証に立った人)も有る仁、後日の念に御父親の一札(一通の証書)を認めて、それに留守居の婆さ んの認印も押して貰いたい。 さあ、会所に同道いざござれと、門の戸をはたと引き立てて、天の岩戸ではないけれども、此処にも紙 の貸し家札、残らない千早振る道具、空家とこそはなりにけり。 博多小女郎はすっかり町家の女の風になりきって、夫の惣七は危うい分限、波の上、何百里ともしれな い海上を、不知火筑紫と股にかけて気苦労を積んできた身には、京と大阪はついの隣で、夫婦で打ち連れ て帰ったのだが、暖簾をはずして大戸を閉めて、墨黒に貸家札、こりゃどうじゃ、はっはっと言うより詞 はなく潜り戸押し開けて入ったのだが、湯水を飲む鍋釜もなく、畳を上げて閑古鳥が鳴きそうな寂しさ だ。泣くにも泣けずに興ざめ果て、口を開けているだけだ。 惣七の心は、足の裏の傷に応える。足の裏に疵を持てば、後暗いことのある者は、音のする笹原も歩く のを憚る、簀の子にどうとばかり腰を下ろした。 小女郎は急いて、これ申し、ゆるりとしていさんす所ではあるまい。ねんごろにする家主殿、内儀様と 私とも親しくしていて、先途下る時にも、土産に大阪の三吉下駄を頼むぞやとおしゃんした。それほどに 隔てのない仲なのにこれはまた合点のゆかない仕打ちです。わしゃ、厳重に掛け合って来ます。走り出そ うとするのを、これ、これ、これ、女子が言っても埓が明かない事だ。貸家と言っても名前だけで、破れ 屋を手前普請(借家人の方で金を出して修理すること)で、根太(ねだ、根太板の意で床板)も追っ付け張 るはずで、板も買って置いてある。家賃といえば二ヶ月、三が月先へと遣れど滞らず、町内の付き合いも 欠かした事のない自分だ。家財まで取られた上に、姥(うば)の行く方も知れないのは、どう考えても下 の考えではなくてお上の指図によるものに相違ない。方々に預けておいた金銀や荷物についての嫌疑なの か、いづれの道でも命有る中一夜も此処では明かすことはできない。 ええ、是非に及ばず、惣七の運もここまでか、こりゃ女子共、男共(連れていた下女や下男に向かって 言う)、見るとおりの始末だぞ。わしの力では叶わない。主従の縁も是れ限りだ。大阪での遣い余り、一 歩細金(いちぶこまがね、一歩判金と豆板銀)が少々残っている。三人寄って分けて取れ。暇をやろう。 さらばさらばと、金更沙(きんさらさ、金色で草花や蔓草などの模様を描いた更紗・綿布)の財布を投げ 出せば、お笑止とも何ともお辞儀して遠慮申すのも却って失礼でしょう。又のご縁と口上をひねって財布 の中身を探ってみると、手に触ったのは一歩小判も八九両有る。はっと、寝耳に水臭いと驚きながらも半 年雇や一年雇の別もなく、連れ立って表に出たのだ。 物音が隣に聞こえたので、姥が会所を抜け出して来て、のう、疎ましや、疎ましや。情けないことにな りました。昨日の晩から親仁様がお出でなされて容易ならない事態になりました。浅ましい欲心から海賊 の仲間になり、道に外れた銭儲けを結構な事と思っている。磔刑になって木の空に引き上げられるのは今 直ぐのことだろう。菜大根を肩に置いても正直な儲けは三文でも身につくもの。そう言い聞かせた詞も反 故にして、何で出来た屋財家財、これが我が子の敵じゃと、お可哀想に涙ながらに道具屋を集め、二束三 文に売り捨て、家も明け渡して、その上に隣の会所で町役人の前に畏まり、何やら畏まりを言い、何やら 断りを言ったり、皆お前様故の御苦労と、涙ぐめば涙ぐみ、これ姥や、掛け硯に入れておいた割符の手形 だが、これが入ったままで売り渡されたとあれば一大事だ。入れ物とともに道具屋の手に渡ったか。 いやいや、掛け硯は売れたけれども、その割符は残して親仁の鼻紙入れに納めてありまする。そんなこ とを気遣いせずに、早く町を立ち退かせてあげたい。はあ、会所から呼ばれています。姥はもう行きます る。私が尚も生きながらえてご縁がありましたならまた会いましょう。お二人ともにご無事でと、帰った のだがこれも名残が惜しまれる。 呆然として惣七は、親父の耳に入ったからには、世上に知れた極まったぞ。四日市には思い寄る方もあ る。伊勢路に向けて遁れられるだけは逃れてみよう。もう七つ(午後四時過ぎ)になった。さあ、用意と 言っているところに惣七、宿にいるか、早い門の鎖しようだな。潜り戸を開けてさっと入って來たのは毛 剃九右衛門。惣七はうろたえて、や、珍しい。何と思ってのことか、先ず先ずこれへと、煙草盆を持って 来い、茶を持って来い。と言っていると九右衛門は胡散臭げな顔。 黙りゃ、黙りゃ、惣七、大阪で会ったのは四五日前だ。追っ付け上る京でと言い合わせて、こりゃ宿替 えと見た。どういう始末でいづ方に立ち退くのだ。心配だなと言ったところ、いやいや、気遣いなことで はない。たった今上って来てまだ洗足もしていない。老体の親、別住まいも異なものと。一所につぼむ談 合で諸道具を引くやら、取り込んだ最中なのだ。九右衛門、そなたの京での宿はどこなのか、こちらから 便宜しよう(訪れよう)。休んでいきなと出ようとする。 待ちゃ、待ちゃ、はて、きょろきょろと夫婦して呑み込まぬ素振りだ。これ、やがて商売時分(密貿易 にかかる時期が來る)だ。こっちも明日国に下る。仲間中から預かった島の割符(島影に来る先方の船と 引き合わせる証拠の手形)を受け取りに来たのだ。その割符を渡してから外出しろ。 おお、如何にも、如何にも、その割符は大事にしては箱に入れて封をつけて、親仁に預けた。追っ付け こっちから持たせてやろう。そう言うと九右衛門は顔色を変えて、三千里を股にかけるこの仲間、命とか け換えの割符を親仁に預けたとは一体何処へやったのだ、上手いこと言い逃れをしようとしてもそうはさ せないぞ。仲間を抜けて一人で儲けようと企んだな。音沙汰なしでの俄宿替え、丁度算盤が合うぞ。割符 はその肌につけているのは知れたことだ。無理にも受け取ってみせるぞと、大戸潜りの懸け金くるる、し っかりと掛けてのし上がれば(横柄に構えて上がってくる)、小女郎は慌てて、これ九右衛門様、普段か ら魚と水の仲の良いお仲間です、何の嘘がござんしょう、その割符は二三日内にきっと私が渡しましょ う。先ず帰って下さんせと押し出す小腕をむんずと取り、ええ、面倒なと簀の子の上にどうと投げつけ た。 卑怯な、女を痛めなくとも言うべき事は身に言えと、脇差に手をかければ、や、刀の鞘の反りをかえし て身構え脅しても、割符を取らずにおこうか。ずわっと刀を抜けば惣七も跳び退いて抜き合わせる。双方 は腕はくるわないが縄目も弱い古簀の子、所々朽ちている篠芽竹が踏み込んだ足を辛うじて踏みこたえ、 右へ払えば左に踏み抜きそうになり、左を切れば右を踏み込み、打ち合う鋒(きっさき)は春の日に溶け ていく氷を踏む如くである。 小女郎は中に身を捨てる掃き溜めの鶴よろしく、鍬箒(くわほうき、金属製の細杷・こまさらい)持っ て開いて刃物を撃ち落とそうと立ち廻った。裾を簀子に絡ませてしまい、かっぱと転んだ頭の上、ひらめ く刃が危うい。 辺り隣で聞きつけても、恐れをなして故意に知らぬ顔だ。堪りかねて惣左衛門が何といっても子が可愛 いので、割符を渡すぞ、怪我をさせるなよと、表へ廻り門の戸を推せど叩けど開きはしない。くるるの穴 から覗いては、はああ、はああ、悲しや、危ないぞともがいては裏に駆け回るのだ。 内では小女郎が障子を外し、九右衛門と惣七の中を隔てる盾として、相手の刃物を押さえようと前に塞 がり後ろに開き、隙間を見ては打ち付ける。足を踏み堪えられずに障子を自分の身に背負いながらにどう と臥せば九右衛門がすかさずに片足を軽くがわっと踏み込み小女郎の上に重なり伏して、障子越しに突こ うとした。 突いたらおのれ一打ちと、上で煌く惣七の切っ先、危うい中の危うさである。 親はあこがれ気を揉んで、隣の壁を打ち毀ち、打ち毀ちして、手が出るほどに壁の下地(細い竹や木な どを組んで壁土を塗りつける土台にしたもの)を引き破り、割符を出してひらひらと振ってみせる親の手 つきは物を言うほどに効果が有る。 惣七が素早く見つけて、やい、九右衛門、聊爾(れうじ、早まるな)するな、割符を渡すぞ、言い分は 有るまい。こっちも刀を鞘に差す。さあ、差せと鞘に納めて眼前にたちまちにして危うい命が助かったの も、親の慈悲だと割符を持った親の手を押し頂き、押し頂きしてから、これ、これ、確かに受け取れと、 渡せばとっくと見届けて、むむ、別條ないないぞ、受け取った。これ惣七、互いに命懸けの身過ぎ(生 業、商売)だぞ、魂を磨く仲間の法(掟)、互いに斬り合ったすぐ後から仲良くするのも我々仲間の意気地 というものだ。遺恨は残さない、気苦労のある顔色じゃ。山が崩れかかっても狼狽えない心を持たなけれ ばこの商売は出来ない。何時もの時分に又下って来いよ。 国で会おうと暇乞い、出て行ったのは図太く大胆だ。 惣七は小女郎を引き起こして、今のを見たか、忝ない。親の有難い慈悲だぞ。この壁の崩れをせめて拝 んでくれよ。そう言って泣く。 ああ、有難い御恩徳、慈悲の心を受けながら、壁一重、あちらの舅様の御面体を見ることも叶わないの か。はああ、息が切れて物も言えない。水でも湯でもと苦しむのだが、茶碗一つ、杓一本さえない。あ ら、気の毒な、どうしようか、そういう声が隣に響いて聞こえ、茶碗にぬるま湯を壁越しに届ける親の手 元を見て、はああ、冥加ない(勿体無い、神仏のご加護に適う)有難い、夫婦はわっと泣き出した。 茶碗にすがり、手にすがり、お盃ともお薬とも、氏神様のお神酒とも思われまする。これ以上の慈悲は ありません。二人は押しいただいて飲み交わし、申し、お手は取りましてもお顔は知りません。私はお許 しは頂いてはおりませんがお前様の嫁です。 どうぞご機嫌を直し、惣七様とも詞を交わし、一期(いちご、一生、生涯)の見始め、見納めにお顔を 拝ませて下さいませと、舅の手を我が顔に押し当て押し当てして泣く涙。親の嘆きも現れて腕が震えるの も哀れである。 尽きない涙の手を突き放して、銀(かね)財布一つを投げ出して、早く出て行け、出て行けと言うよ うに門の方を教える手さえ引き入れれば、今は親よ、舅よと頼る名残も切れてしまっているのかと、又も 絶え入って泣くのだが、のう、不孝至極の惣七にこれほどのお慈悲、路銀までも下さるお心に背くのは猶 更の不孝と、財布を夫婦が戴き戴き、もはや人の顔も見えないだろう。これが本当の名残じゃ、互いに身 用意(身支度)して裾を引き上げ泣く泣く表に出たのだが、隣の門を遠くに見遣り、やれ、姥よ、小女郎 をただ一目だけでも親父様に見せてやってくれ。路銀のお礼も申したいと小声に言うのを姥が聞きつけ て、姥が姿を現すと惣左衛門が、これ、姥や、何をとぼとぼとしている。今の銀は隣の道具を売った銀 (かね)で、直ぐに隣に投げ込んだぞ、礼を受けるはずもないことだ。惣左衛門は子供に商いは教えた が、非道の身過ぎする子は持たない。浅ましいやら不憫やら、天道も日月も、神も仏も罰こそ当てはなさ らないが、こっちから罰の下に当りに行くとは気付かないのだ。生き物には自然に食べ物がついてまわる と諺で言う。 人間が一人生まれれば、乳房と言う天道の御扶持、天から与えられる給付の米が有る。正道に勤めれば 分限相応、相応に天の乳房が備わるもの。正道にない銀儲けでは、栄耀をするようではあるが天道の乳房 から放たれて、三界(広い世界)の捨て子となり、野垂れ死にする者は数知れない。猫は炬燵に寝臥しす る、犬は土辺で物を喰うが炬燵にいる猫の真似はしない。身の分量を知っているのだ。畜類に劣る身の程 知らず、成れの果てが思われて不憫さに腹が立つ。そう言って包み兼ねた涙を流す・ やい、惣左衛門の子になりたいのなら、手鍋下げてでも正道につけ。浅ましい死をしないように、命を 全うして、順当に親を先に死なせて、惣左衛門の葬礼には喪服の白色を着て供をして見せよ。 その時は我が子だと、棺の中から悦ぶ。早くうせろとばかりにわっと泣き入った。その泣く声が耳に残 るのを形見にして、別れ行くのは……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2025年03月25日 19時28分49秒
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