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草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2025年05月21日
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出世景清

 妙法蓮華経観世音菩薩、普門品第二十五は大乗八十軸の骨髄、信心の行者大慈大悲の光明に預か

り奉る、観音力ぞ、有難き。

 此処に平家の一族で悪七兵衛景清は、西国四国での合戦に討ち死にすべきものなるを、死は軽く

して易く生は重くして難し。所詮(詰まるところ)命を全うして平氏(へいじ)の怨敵、頼朝に恨みの

一太刀を浴びせて、平家の恥辱をすすがんものと落人となり、尾張の国、熱田の大宮司にいささか

の導(しるべ)があったので深く忍んでいたのだった。

 もとより大宮司は平氏重恩の人であったから、深くいたわり、一人娘で小野の姫と聞こえたお方

を景清とめあわせて、子とも聟ともかしづきなされた。その志は懇ろで優しいものであった。

 景清は大宮司の御前に出で、まことに某無二の御懇志に預かり、ながながと浪人仕り、身は埋も

れ木と朽ち果てる末に頼みがない身ではありながら、せめて頼朝に一太刀浴びせて、君父の恨みを

散じ、その後は腹切ってとにもかくにも罷りならんと、空しく月日を送り候。

 しかるところに、今朝、究竟(非常によいこと)の事を聞き出だし候。その故は、鎌倉殿は南都東

大寺大仏殿の御再興あるべしとて、秩父の重忠がその奉行を承り、昨日の暮程にこの所を打って通

り候由、たとえば頼朝が七重八重の城郭に取り籠り、天地に鉄(くろがね)の網を張り用心厳しく候

とも、この景清の一念でどうして狙わずに置くものか。

 さりながら、重忠が常に頼朝の側を離れず、神変不思議を兼ねているのでその身は都にありなが

ら、心はなお鎌倉殿の側にある。

 こう申す景清は二相を悟り候えども(表を見れば裏も悟る賢明さがある)けれども重忠は四相を

悟る。頼朝に出であい討たんとせしこと三十四度に及んだが、重忠に隔てられて遂に本望を遂げず

にいる。

 しからば先ず重忠をさえ討ち取らば、頼朝を討たん事、踝(くびす)を旋(めぐら)すべからず。

 重忠、この度東大寺の奉行に上ること幸いかな仕合せかな、天の時来たり、忍びやかに南都に下

り、重忠の首を引っ提げて参らんに、早お暇と申うされた。

 大宮司、聞き給い、げに究竟の時節が到来致した。構えて人に悟られ給うな。急いて事を仕損じ

なさるな。片時も早くと有りければ、北の方も喜んで宗盛公から頂戴した痣丸という名剣を景清に

奉り、首尾よくしおおせなさりなば一日も逗留なく早くお帰りなされましと、門出の盃を出された

ので、互いに千秋万歳と獅子の勢い、龍の勢(せい)。いさみいさみて行く虎が尾張の国を立ち出で

て奈良の都に上らるる。

 いで、その頃は文治(ぶんぢ)五年春過ぎて、夏来にけらし、白旗(しらはた)の源氏の大将頼朝公

は南都東大寺大仏再興の御願にて、畠山の重忠が奉行職を承り、松にも藤の花を咲かせたように東

大寺前の野原一帯の春日野や飛ぶ日の野辺に仮屋を打たせて、横目(監督)帳付け、勘定方、大和大

工に飛騨工(ひだたくみ)らが杣(そま、樹木を植え付けて材木を取る山)に入り、木を作りの仕事

を終わり、今日は吉日の柱建て(初めて柱を立てて建築にかかる祝いの儀式)、わが身は桟敷に一

段高く村濃(むらごう、同じ色を所々濃く染めたもの)の大幕を打たせて、続いて見えたのは本田

の二郎その他の侍共、丁場(ちょうば、持ち場仕事の受け持ち区域)々々にしるしを立てて、弓

槍長刀(なぎなた)吹き抜き(旗の一種)に、柳櫻をこきまぜて華やかなりける御普請である。

 こうして番匠(ばんじょう、大工)の棟梁、木工(もく)の頭(かみ)、修理(しゅり)の頭、おのがし

なれる出立で(それぞれの服装で)吉方に(目出度い方角、恵方)打ち向い、先ず屋固めの祭文(新し

い建物を祝福する文)を唱えながら、御幣を振って再拝し、手斧始めのその儀式、厳重にこそ勤め

るのだった。

 むべも富みけり、さきくさの三つば四つば(三重、四重に軒がかさなっている立派な建物)の大

伽藍、手斧始めの寿に、千代を固めて柱建て、春は東に立ち初める、これぞ万物の始めなり。夏は

南にめぐる日の、菖蒲(あやめ)の軒が薫であろう。秋は又、西の空、七夕の牽牛織女の夫婦の語ら

居に真似て尽きせぬ語らいを象(かたど)って、天(あま)の河原の橋柱白(しら)げたつるや突き鉋(か

んな)、雲をそなたに遣り鉋、冬は北にぞ筒井筒(井戸を掘る)、水こそは家の宝である。

 廻れや廻れ井戸車、竈(かまど)賑わう竃(へっつい)殿(かまどの神様)、先ず陰陽の二柱、二本の

柱は女神と男神を表(ひょう)したり。三本の柱は、三世の諸仏(過去、現在、未来の三世にわたる

一切の仏たち)、四本の柱は四天王(帝釈に仕える四方の守護神)、四海泰平・民(たみ)安全と祝い

こめたる墨壺の糸の直ぐなる国なれば、宝や宿に満ちるそれではないが、三つ目錐(きり)、鋸(の

こぎり)屑の数々と、浜の真砂と君が代は数え尽くせない面白や。

 しかるに、この大伽藍と申すのは、聖武皇帝の御建立で三国(さんごく、天竺、支那、日本)無双

(ぶそう)の霊場である。兜率天(欲界六天の第四、知足と訳し、楽しみに満ちた宮殿。内院と外院

があり、内院では弥勒菩薩が衆生を救うための説法をする)の内院をさもありありと移している。

 堂の高さが二十丈、仏の身丈は十六丈、雲に続いているので自然に月を後光と見立てる三笠山、

柱の数は天台の一念三千の機を表し、三千本と定まっている。軒の垂木は法華経の文字の数、六万

九千三百八十四本である。山門には獅子の狛(こま)、さて、正面より四方四面の扉々の彫り物には

松に唐竹牡丹に獅子、豹と虎とが威勢を争い、百千萬の獣(けだもの)をぼったて(追い立て)、ぼっ

たり、くるり、くるりと巌(いわお)に追い上げ追い下して、風にうそぶく波間より紫雲を巻いて登

る龍、又、下り龍、玉を掴んで虚空に捧げ鱗(うろこ)を立てたる、その勢い、手を尽くさせて彫り

つくし、扨て棟瓦軒瓦、金銀瑠璃、玻璃、シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・水晶を葺き立て葺きたて、

珊瑚珠(さごじゅ)の木舞(こまい、垂木の端のぬき)を隙間なくひっしと打った臺(うてな)には

金襴錦に柱を包んで黄金の鋲を輝かせるであろう。

 棟木を負う柱には南畝(なんぽ)の農夫よりも多く、簗(うつばり)に架する椽(たるき)は機上(きし

ょう)の工女よりも多く、釘頭(ていとう)の磷々(りんりん)たるは庾(ゆ、倉)にある粟よりも多く

く、旦暮の説法、読誦の声は市人の言語(げんぎょ)よりも多からしむ。

 仏法繁盛、四海鎮護の大伽藍、如意満足(思うままに満ち足りた)の柱を立て、目出度し、目出度

し、目出度しと、手斧押っ取りちょう、ちょう、ちょう、槌を押っ取ってはしってい、しってい、

鉋取りのべてさら、さら、さら、えいさら、さら、さらちゃう、ちゃう、ちゃうと打ち始め、取り

始めて、三々九度の神酒を捧げ、千度百度(ちたびものたび)祈念して、重忠に式台し(礼をする)棟

梁は座をば降りたのだ。

 手斧始めも事が過ぎれば、数千の番匠(ばんじょう)下々まで皆々小屋にぞ入りにけり。

 遥かの後から四十ばかりの男であるが、人足と思しくて、昼かれいの櫃(ひつ)を担い頬被りして

通りける。秩父の執権(家臣の中の頭)本田の二郎がきっと見て、やあ、これなる下郎めは、かかる

晴れの庭であるのに頬被りは緩怠(かんたい、無礼、無作法)だ。式台せよと咎めたところ、かの男

は小声で作法も知らぬ下々であります御免下さいと言ってつっと通る。

 何処へ、何処へ、さてさて、ぞんざい千万なる奴めかな。頬冠りを取らないならば誰か有るか、

それぶて叩けと下知すれば、仲間共が承り一度にはらりと取り廻した。

 番匠の棟梁がこの由を見るなり、これ本田殿、彼奴はその日雇いの人足で差別も知らない下郎で

あるからさぞ推参も候べし。さりながらかかる目出度き折であるから、ただ何事も穏便に計らいた

まえと申しける。

 本田は聞き入れもせずに、いやさ、彼めはちと人に似たる者の候えば、さて、珍しや本田殿、人

が人に似ているのを事新し気に候。これ、下郎め、おのれ大分の銭を取りながらかだら(なまけ怠

ること)して働かず横着ひろぐ故に人々からも怪しまれる。祝儀に邪魔をしている、値を損にする

だけだ。叱りつければ、よき幸いなれと景清は荷ないし櫃を下して置き、迷惑そうに揉み手をして

表にこそは出たのである。

 重忠は幕の内から御覧じて、暫く、暫く、いかに方々、平家の落人が此処、彼処に忍び居て君を

狙うと聞いているが、ただ今の人足はまさしく悪七兵衛と見たのは僻目(ひがめ)か。あれ、余すな

、何と言ってもこれは、一大事の柱立ての清めの庭だ。穢してはどうにもならないぞ。前なる野辺

に追い出して討って捨てよと宣えば、もとより早く関東武者、我も我もと駆け向かう。

 景清はこれを見て、担い棒に仕込んだ件の痣丸をするりと抜いてさしかざし、大勢を左手(ゆん

で)に受け頭を叩いてからからと笑い、これ、御侍衆、某は尾羽打ち枯らした鎌倉の浪人者ではあ

るが、朝夕に迫りかかる侘しき営みを仕る。さすがに人目が恥ずかしく、顔を隠してありければ、

何ぞや某を悪七兵衛とは眼(まなこ)眩んでしまっているのか。ただしはその景清が恐ろしさに面影

に立ったのか。

 よしなにもせよこれ程までに雑言され、堪忍罷りならず景清程ではないにせよ、そっと(少しば

かり)腕前を見せてくれよう。例の痣丸を小脇にかいこんで多勢の中に割って入り、火水になれと

挙げしく戦ったのだ。切り合う時刻も移らないのに、十四五人を切り伏せて、重忠に見参しようと

と、ここの詰まり、かしこの隈に駆け入り駆け入り騒いだのだが、大勢に隔てられて、今はこれま

でである。深入りして雑兵共に手負いにさせられては景清の末代までの名折れとなってしまう。

 またこそ時節は有るだろう、いで、追っ払って落ちて行かん。と、番匠箱を押し開き、大のみ小

のみ手斧鋸遣鉋、究竟の手裏剣と押っ取り、押っ取り、打ち立ったれば、さしも勇んでいた軍兵

共わっと言ってはさっと引く。

 なおも寄せ来る者どもを小屋の小柱をひん抜いて、八方残らず振り廻れば秋の嵐に散る紅葉、む

らむらぱっとぞ逃げにける。

 そうだろう、その筈だ。この度はし損じたとしても、この景清の一念の剣は岩をも通すであろう

と、躍り上がり飛び上がり、歯噛みをなして行く雲の月の都に上りける。

 悪七兵衛の力業、早業・軽業・神通業はただ飛ぶ鳥の如くなりとて、恐れぬ者こそいなかった。


          第 二

 まことや猛き武士(ものにふ)も恋にやつれる習いあり。薪を負える山人も立ち寄る花の陰、景清

も常に清水寺の観世音を信じ奉り、参詣の道すがらに清水坂の片ほとりに阿古屋と言える遊君にか

りそめ臥しの假枕、いつしか馴れて今はもう二人の幼児を儲けていた。

 兄の弥石六歳、弟の弥若四歳で、まことに大人しく見えたのだ。阿古屋はもとより遊女ではある

が妹背の情(なさけ)細やかで、世に出ないで身を隠している景清を愛おしみ、二人の子供を養育し

て、兄には小弓と小太刀を持たせ、父の家業を継がせたいと習わぬ女の身ではあるが、兵法の打太

刀をして武道を教える心ざしは類まれに聞こえける。

 かかる所に悪七兵衛景清は重忠を打ち損じてようようとして来て清水の阿古屋の家へと着き給

う。





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最終更新日  2025年05月21日 20時31分59秒
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