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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2009.01.11
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三ヶ根に行く。

 岐阜では愛知岐阜三重3県合同の拉致署名活動があり、参加したかったが三ヶ根に毎月10数名でお掃除にこられる皆様とお話したりしていて遅くなり、ご無礼してしまった。

 さて、元教師の山口さんは、三ヶ根の心からの支援者。去年、兄上が戦死されたニューギニアに、戦後始めて慰霊に行かれた。

 激戦の最中にあって、日本軍は、そのニューギニアの山奥ですら、学校を作り、教育をしたのである。そこで始めて勉強とは何か、学校とは何かを知り学んだ少年が、今の大統領になっている。そんな未開の戦地においてさえ、日本軍戦士は、兄たちは、アジア解放の理念を必死になしていたのかと、兄はこんなところでも必死に教育し、生きてきたのかと、涙ながらに語られた。

 以下、そこでの60余年にして初めて、慰霊にいかれた山口先生のご体験報告文を載せたい。(三ヶ根通信1月号に記載しておきました。)

(前略)
 ココダ・トレイルでは日豪対決として後世に残る所で、オーストラリア政府建立の記念碑がある公園のようになっていました。休憩時間の僅かなのが残念でしたが、英文銘板の冒頭に

「日本軍兵士は勇敢に戦った;」と相手を称えた文言を目にし、なんとも言えない感動に襲われました。英語に弱い私にもすぐ読み取れました。如何に兄たち日本軍が戦ったのか、ひしひしと胸に伝わってきました。別の銘板には「ストロング ジャパニーズ アーミー」ともありました。正に君のため国のためにと、ひたむきに、逝きし日本軍であり、連合軍であった事を知りました。ゆっくりメモする時間のないのが誠に残念でした。
 (中略)
 クムシ河を眼下にして、御田重宝著『東部ニューギニア戦―クムシ河、死の渡河』とあけぼの会門脇朝秀編『台湾高砂義勇隊』に暫し思いを馳せました。
 若い兵士らは、命ぜられたままひたむきに任務の完遂だけを考えて、行動しました。これが青年の義務だと信じて疑わなかったのです。だからこそ生命を賭けて戦ったのです。マラリアによる四十度以上の高熱で対岸へついたとき力尽き亡くなりました。また、有る兵士は目の前で両手が水面に見えていましたが、やがて見えなくなりました。湿気、マラリア、下痢、飢えに苛まれた体が水中で無意識に手を動かし、体力を消耗し尽くして溺死ではなく、絶命したのです。もう少し腹が減っていなければ助かったでしょうに。

 ここでも、忘れられないことは、高砂義勇隊の感謝にたえない働きをしてくださったことでした。
 弾薬、食糧の運搬、傷病者の後送など,実に勤勉に働きました。良く訓練され、号令一下、働き教育されていました。日本人より真面目で、一生懸命働いてくれました。力も強く、身体も大きく、米の分量も忠実に守って、それ以上に決して手をつけませんでした。特に頭が下がったのは傷病者の後送に当たって示してくれた高砂議勇隊のどの態度一つ見ても、どう報いてあげたらよいか。今思い出しても胸がつまります。と目頭をうるませて述懐されていることが書かれています。
 また、ある高砂族の青年兵士は山地民族の本領を発揮して筏(いかだ)のつくり方や操作を指導してくれました。直径二寸(六センチ)のなるべく白い木(軽い)を六尺(一、八メートル)に四・五本切って、蔦で筏を組む。人間が乗るのではなく、衣類兵器だけを乗せ、河の真ん中へ押し出し、人は筏につかまって流されていくのみ。濁流、急流では命がけで体力がないため、手を放したらそれっきりとなってしまうと教えてくれたと。

 文化生活に慣れた日本兵は、軍靴が破れて使用不能となれば裸足でジャングルを歩くことは到底出来ません。水虫に苦しめられている足に、毛布を巻いて歩くしかない。ところが彼らは裸足のほうが歩きやすいのです。食べ物にしても自生する動植物の何が食べられるか、また有毒か。昼間も暗いジャングル、夜ともなれば真暗闇、恐怖が満ち溢れる世界です。得体の知れぬ動植物だけではなく、ピアノ線を張り巡らし、線に触れようものなら盲滅法に重火器で乱射してくるのです。ところが野山を住み家とする高砂族の人達は、本能的とも、動物的ともいえる超人的な五感と身体能力で危険をいち早く察知し、予知して極めて誠実に伝え、指導してくださっていたのです。

 『渡河の際、重機関銃が激流に流され、幾ら探しても見つからないこの河で、良くぞ渡河することが出来たことよ、と今も思っています』と。

 私の眼下のクムシ河は往事茫々、なにごともなかった如く、今も水は逆巻きながらとうとうと流れています。流され、もがき、苦しむ兵士の姿も、私の視界には全くありません。悲痛の叫びも聞こえません。でも、河は私に何かを訴えているように思えてなりません。

 (中略)

 
  尊敬される山下将軍
 
 十一月七日午前五時五十分、夢に見てきたウエワクの朝です。お休み中の同宿治部さんの横をそっと抜け出し、外にでる。部屋の前におかれた椅子に腰掛け、部屋からの風物を脳裏に焼き付けようとあたりを見渡す。ほんの五十歩も歩けば美しい砂浜、その先は海。ビスマーク海?の波が打ち寄せています。砂浜とホテルの間の通路脇には、大きなココナツやしが四・五メートル間隔で植えられている。

 ついつい波の音や風景に浸って、物思いにふけっていると、すぐ近くの花壇の手入れをしていた初老?の男の人が、持っていたスコップを置き、思いつめたように私に真っ直ぐ近づいてきました。怖いような雰囲気です。

 何事かととっさに居住いをただすと、身振り手振りで話しかけてこられました。「貴方は何処の国の人ですか。」「私は日本人です」と言ったら、緊張が解けたような表情になり、「わたしはマーブリック・フェリックです。私の父は日本兵をかばい、オーストラリア兵に頭を打ち抜かれて亡くなりました。」と話してくださった。私も「私の長兄は、このウエワクで亡くなりました」と言って、互いに手を取り合って暫し涙にくれました。

 とても印象深いウエワク、ウインドジャマービーチホテル初日の朝です。
 玄関前にいた十二・三人のこの地の人達も、みんな日本軍の事を良く知っていて、好意的であるのがとても嬉しいです。兄の亡くなったとされる地であるだけに:。
(中略)
 周囲に気を取られ、時計を見る余裕もなく、時刻を見忘れていて、英霊碑につきました。碑はクホイ族の高い台地の屋敷内に建立されていました。美しく刈り揃えられた大きな葉っぱの芝生が敷き詰められ、その中に縦三メートル横十メートルくらいに仕切られた真中に、横書きの「英霊碑」と彫り刻まれた高さ一メートル横二メートル、厚さ一メートルくらいの大きな岩が置かれています。その周りに花崗岩の名板が岩を囲んでいます。名板には戦死者の氏名がぎっしり彫り刻まれています。

 残念ながら長兄の名はありませんでした。がっかりして碑の背面に回って目を移すと、はるかウエワク湾まで見渡すことのできる、素晴らしい眺望です。眼下に拡がる緑豊かなウエワクの平地?には部落がまばらに点在し、如何にも長閑な風景です。その向こうの海はビスマーク海でしょうか?その海に点在するのはアドミラルティー諸島の島々に違いありません。ムシュ島はその一つでしょう。

 このムシュ島は、降伏文書に調印後、生存兵士全員が集められた島です。その間にあっても栄養失調で亡くなる方が引きも切らず、公刊戦史によれば内地に帰還できた方は一万七十二名でした。

 陸軍中将安達二十三(あだちはたぞう)第十八軍司令官はあらゆる部下の今後の生活のために尽力され、自らも終身刑を受けながら、証言台にしばしば立たれました。

 ラバウルの地で全ての裁判が終わった昭和二十二年九月十日、それまで隠し持っていた錆びたナイフで自ら割腹自決されたのであります。

 厳格で細心、信と愛を貫かれて殉じられました。困難に当たっては率先して苦難に立ち向かわれ、部下からの篤い信頼のもとに、苦悩の日々を過ごしてこられたのです。

 上官に宛てられた遺書には

「・・小官の不敏能くその使命を全うし得ず・・・作戦三歳の間に十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪ひ、而して其の大部は栄養失調に起因する戦病死なることに想到する時、御上に対し奉り何とお詫びの言葉も無之候。・・・・疲労の極に達せる将兵に対し更に人として堪え得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致候。之に対し黙黙之を遂行し力つきて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時君国のためとは申しながら其断腸の思いは唯神のみぞ知ると存じ候・・・・。」

 正に上官の命令をひたむきに遵守して逝った長兄の姿と墓碑に刻んだ父の想いが目の当たりに髣髴としてくるのであります。

 悲惨な死を遂げた長兄も、こんな立派な将軍のもとで戦うことが出来たのは仕合せだったと思います。

 祖国の安寧秩序を願って良くぞ戦ってくださいました。

 安達中将は、補給もない中で三年余の飢餓と戦闘の苦しい戦いを一糸乱れぬ統制のもとに戦い抜かれました。

 私は現地で、こんな話も聞きました。部落民は転戦する日本軍の将兵を慕い、女子供まで協力してフールン山を越え、ヌンボク地区まで移住して終戦を迎えた。当時を知る老人は「アダチ ビッグ コマンダーのもとで俺たちは安達将軍や軍司令官と一緒にヌンボク部落までついて行ったんだ」と。安達中将や兵士らのお人柄の一端を偲ぶことが出来ましょう。

 将軍は昭和十九年八月以降持久体勢を指令され、ウエワクで孤立無援の中にあって、自ら考案されたサゴヤシの幹からの澱粉採取、病人運搬、永住農園開拓などの方式により、悲惨で過酷極まりない戦闘を終戦まで持久されました。

 第十八軍の戦歴は日本陸軍史、否、世界の戦史の中にあって、際立った光彩を放っているのであります。

 安達中将は「愛の将軍」と称えられています。

 この地での遺族は二班十七名中最多の私を含め七名。それぞれ思い思いに持参した遺影や所縁の品々を英霊碑の前の台座にお供えしました。私は長兄が好物だった落花生二袋とトマト・ケチャップ一袋を供えました。先のトマトは前述のように、残念ながらお供えできませんでした。

 碑の上には、誰が供えたのか半分ほど錆びて穴の開いた鉄兜。錆びた測定儀?機関砲の薬きょうらしき?太さ三センチ高さ六センチくらいのもの、他二点がすでに置かれていました。石碑に日章旗を掲げ、各自一言ずつ思いを述べました。私は

「大きい兄さん、なくなられた諸先輩申し訳ありませんでした。周行が親兄弟姉を代表して、やっとお参りにまいりました。お許しください。

 戦後の日本人は昏迷の度を深めています。諸先輩の尊き働きにも拘らず何とも申し上げる言葉がございません。お許しください。」とだけしか言えませんでした。
 
 悔恨と謝罪が涙となって滴り落ちました。悲しいおまいりです。

 本当は胸を張って、世界に冠たる精神復興を成し遂げた?日本の現状を報告したかったのですが・・・・。お参りは出来たものの、胸は少しも晴れないのが残念でなりません。心残りを胸に秘め、次の慰霊地へ向かいました。
         以下略      体験記以上

 日本人がどれほど必死に祖国とアジアのために生きたのか。そのかたがたのことを忘れ去って、今いかに自分勝手に生きていることか。

 知ったかぶりで、日本を断罪することを平然とする。こんな日本人ばかりではありませんか。国旗を揚げることすらしない。忘れている。先人の必死の思いに心を寄せようともしない。立派に挨拶すらできない。
 こんな日本でいいのでしょうか。
 少なくとも、先人に恥ずかしくない生き方をしようではないですか。

 明日は成人式。立派な成人になってくれることを祈って已まない。
 国旗を出してお祝いしましょう。私は熱田神宮参拝です。





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Last updated  2009.01.11 19:06:27
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