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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2014.10.18
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午前七時、名古屋の三蔵塾に参加。
第150回名古屋三蔵塾10月例会】
名古屋クラウンホテル 8階『伏見の間』にて。
本日の講師はいつもお世話いただいている河村廣康先生。 一般財団法人 全国強制抑留者協会理事。元、春日井市議会議長。演題は『大東亜戦争・シベリア強制抑留の真実』
第150回名古屋三蔵塾10月例会にて河村廣康先生がご講演なされた。 一般財団法人 全国強制抑留者協会理事。元、春日井市議会議長。演題は『大東亜戦争・シベリア強制抑留の真実』
 以下、ご講演内容の要約報告をする。

 昭和十九年一月二三日に大阪の中部二十二部隊(旧八連隊)に入隊。関東軍第193部隊入隊。八月一日、動員令が下り、部隊はフィリピン・ルソン島へ。先生は残留された。
ルソンに行った部隊は十二月全滅。戦後橋本大尉の手記にて同期も全て死んだ詳細を知られる。
昭和二十年六月、残った部隊は満州北端から奉天に移駐、終戦を迎える。
 所属は戦車隊。八月八日、グロムイコは佐藤大使を呼び対日宣戦布告。翌八月九日、ソ連の一斉攻撃がはじまった。北方にそのまま居れば今の命はなかった。
当時満州関東軍はソ連150万の兵力に対して74万。飛行機は5000機に対し200機。戦車5000台に対して200.火砲24000門に対して1000門と、侵攻軍と比してわがほうは圧倒的に少なく、特に初年兵は十人に一丁の銃、五人に一人の銃剣を持つのがやっとの武装状態。
戦車も圧倒的に脆弱。コテンパンにやられた。
開拓団の人の中には「軍は守ってくれなかった」と戦後恨み言をおっしゃったかたもいたが、何しろ軍に武器がなく自らを守ることすらできない状態であったのである。
敵が奉天に攻め込む予定の前日の八月十四日は班長に「遺書を書け」と命じられ髪の毛を抜き、つめを切った。しかし親に届こうとは誰も思わなかったでありましょう。

 そしてついに十五日。武装解除となる。

 この間の九日から十五日の六日間でソ連発表では八万三千人の日本人戦死者がでたとある。一日一万人を越える戦死者が出続けたことになる。これほど悲惨な戦いはわが軍初めてのことである
 関東軍七十四万の内八万三千の戦死者の残りは様々なルートでシベリアへ。
 悲惨なのは徒歩での強制移動。まさに死の行軍であった。
満州では九月はもう冬。食料の乏しき中銃剣を突きつけられ進むしかなかった。道中で倒れた戦友は数知れず。
 厚生労働省では、57万5千人の、シベリアに56万、モンゴルに1万4千抑留としているが、当時満州には150万人の日本人がいて、徹底的に「日本人狩り」がなされ、働ける男はすぐにシベリア送り。
 他に樺太千島北鮮などに軍人は居り、また民間人もいた。抑留が60万などとは到底考えられない。
 滝沢一郎防大教授によればシベリア送りになった日本人は100万人はくだらない。死者は30万人以上。
 昭和二十一年、マリク来日時には抑留者105万2457名と発表。また、米国、バージニアマッカーサー元帥の図書館には111万1650人との記載があるという。
「プリンス殺人事件」の著者、露西亜の諜報部副部長のアルフェンゲリーなる人物が書き残した文には37万4041人の死亡とある。

 日本政府はというと、抑留者60万、死者6万といわれているとの表現であり、実態は全く調査していない状態が現実。
殺害を少なく見せようとする勢力の思惑に従って、また引揚者数との帳尻併せでの過小表記をとっているとしか思えない。60万抑留者ならそうであっても100万抑留なら現地に残った日本人を勘案しても死者は30万をくだらないと見るのがおそらく正しいでしょう。しかし死者の数すら分かっていないのが現状なのです。
 民主党政権下で、弔慰金を三年未満者は25万円5年未満者は35万円をもらったがその際も抑留者人数に関してはほとんど調べていなかった。

シベリア抑留の過酷さの実際はどうであったか。
 まず、武装解除の後、貨物列車に乗せられた。ソ連の「ハルピン以北の鉄道工事を三ヶ月行った後に日本に帰す」との言葉に騙されてバイカル湖西部の町タイセットより北上、41キロ地点の第4収容所に入所。松の伐採の労働を強要される。ノルマは一日三本を切り倒し枝葉を落とす。タボールと呼ぶ斧を使い、ピラと呼ばれるのこぎりをわたされての作業だがろくに切れもせず、どんなにがんばっても一日1本半が精一杯。一日350グラムのパンの支給があるといってもその半分もくれない。食料がなくてとても重労働に耐え切れず、収容者の三分の二は一冬で亡くなった。おなかがすき、耐え切れないので飯盒にそのパンをつめ雪を入れて量を増やす。その飯はとろとろ状態ではなくシャビシャビ状態。スープは岩塩で煮たキャベツが二・三切れのみ。皆骨と皮になるまで使われ、みるみる体力が落ちて行くのが分かった。

 収容所内も不衛生極まりなし。半年以上着たきり雀。

 作業はマイナス35度40度であっても働かされる。マイナス三十度であっても風が吹けばマイナス50度の感覚。作業が終わって小屋に帰っても室内気温は冬はマイナス5度ほど。
 シラミは友達。
たいまつをともして明かりを取る。夏は南京虫に悩まされ、真っ白に塗りなおした内壁も、ただでさえ少ない血を吸う南京虫を憎み、皆が押しつぶして行くので一週間で赤黒い壁に変色。また白く塗りなおすとの作業の繰り返し。他の地では伝染病で大半がなくなったところも。
昼間の作業も裸にはなれない。蚊が一杯出て帽子の上からも刺してくる。ブヨが噛み付いてくる。時には空が真っ黒になるほどのブヨの大軍が襲ってきた。

 収容所は2000ほど。だから2000箇所でなくなった戦友の墓穴があるはず。
しかしその墓は無残にもほとんどが破壊されてしまって原野になったり畑や家屋に。

 イルクーツクでは墓の破壊命令書が見つかっている。「五十七個所の墓を取り壊し、六ヵ所だけ遺せ」との指示書。墓といっても、1メートルから1・5メートルの穴をなんとか夏になって地面が緩んだ時に掘って、そこに、身くるみ剥いだ状態の遺体・大人数の亡骸を、まるで丸太を納めるが如くにを納め盛り土してある状態。それを壊せとは平らにしてならせとの意味。
どうせ見に来るとしても日本人だけ。墓の一割を、見せるための墓にして立派にして遺しておけとの指示である。

 政府間の合意で遺骨収集(収容)が認められたのが平成三年。以来二十年たっているのに昨年までに収容されたご遺体は一万七千五百柱のみ。
 平成十七年六月に厚労省は盛大に収容すると言明、翌十八年衆院本会議で政府として遺骨収集(収容)にとりくむと小泉首相が明言。ところが以後十年たってもほとんど手付かずのまま。多い年でも390体、少ない年は90体のみ。これでは戦後が終わったなど言えっこないではないですか。

友が色紙に書いてくれました。
シベリアで妻子呼びつつ「息」取る友
最期の水を飲ます悲しさ
明日はわが身と思う寂しさ

これがシベリアで友を失った抑留者の共
通の思いなんです。
同じ釜の飯を食べ、月を眺めて帰郷を誓った戦友が70年も冷たい土地に埋もれたままで居る。こんな事がゆるされるはずはありません、是非皆さんに伝えて行って戴き、一刻も早き全員の遺骨収集(収容)ができるのをご支援いただきたいのです。
  講演内容以上。文責杉田。





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Last updated  2014.10.18 18:47:16
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