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午前、豊田にて人と会う。今日の中日新聞の「子どもたちよ」(私の戦争体験)に豊田市の藤原総助さん(90歳)の体験記が載ったため。 昭和二十年)四月七日、天一号作戦において沖縄に向かう大和の護衛艦「霞」に乗っていたとの言葉を見つけたから。 今は豊田に住む中川氏からの電話でこの記事を知った。中川氏は本当に立派な愛国者。搭乗兵のインタビューを米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。 「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名。
この「大和」最期の作戦に従事した艦艇は軽巡洋艦「矢矧」駆逐艦「磯風」「浜風」「冬月」「涼月」「雪風」「朝霜」「初霜」そしてこの「霞」であった。 中川氏は毎週土日には働いて得た金をつぎ込んで全国に戦争体験者のインタビュー記録をとりに走っている青年。そして大和に同行した船舶の最後の一つ、「霞」の乗組員のインタビューを残しているのだった。 中川氏は県外の人、今は豊田にて仕事をしていると連絡を受けすぐに待ち合わせの場所に走って再会を喜んだ。ここまで取材するまで6年かかったいるそうな。その最後の艦艇の乗組員生存者を記事でしかも豊田で知り、感慨深げである。
開口一番、産経新聞から南京入場体験者を教えて欲しいとたのまれ、九州の方を紹介した。岡崎の太田さんがまさかご存命であったとは知らなかった」といわれた。私の通信は毎号読んでくれているので、其の記事で訃報を載せたので、この言葉となったのだ。
豊田市に住んで日が浅く人脈もすくないとの事で、旧軍の方の電話を知らせ、あっていただくことにした。
彼に会うたびいつも「本物だなあ」とおもう。以前は台湾に居を構え、必死に民進党の応援をし、まるで大陸浪人のように侵略者政党国民党を非難。「日本人は台湾を支援する」のようなプラカードを持って新聞の写真に載ったのを思い出す。国民党が政権を取り戻したさい、落胆していると、「今の青年は日本びいき。民間交流をつづけて行けば地下水の如くに日本台湾の友情は生まれる。中国に取られないためにも両国の留学などを進めて欲しい」と語り、へこむ様子は全く無いのだ。
そして今日の再会。「どうしてそれほど必死になれるのか」と問うと、「もう時間がない。体験者は90歳以上。生の声を残すのが責務」とかたる。 事実彼は、台湾のピーナツを加工して日本に売る計画を実際成し遂げているし、日本でバイトして得た金を戦争体験の記録や、かつては日台の交流にすべてつぎ込んでいるのだ。高砂族がらみの現地取材も数多く手がけている。
私よりずっと若い青年がこうして日本人の心を正しく記録しようとしていることに恥ずかしくなる。
わたしは、三ヶ根「殉国七士の墓」なる書籍と「悠紀斎田」の書籍を寄贈。日本の為に必要な人物に差し上げてもらうことにした。台湾人でも無論良いと、言葉を添えて。 先日なくなられた特攻の語り部板津先生の取材記事も文字おこしをされているという。 数多き特攻隊員の取材もされているので、部隊の司令の考えで特攻が志願であったりほぼ拒絶できない強制であったり様々な体験者の記録をそのままとっている。左翼ジャーナリストは、日本批判を中心に描きもし、遺書も書き換えるよう指導されもしている。こうした現状を包み隠さずに記載して記録に残している。良いとこ取りではなく、生身の人間の感情苦悩をそのまま後世に残すという責任感でこの作業をしているのがかれ。 世に国思う発言をされる方は多い。しかし本物の愛国者はどれほどいらっしゃるのであろうか。良く思ってしまうが、彼の至誠に触れるたび、こんな自分では恥ずかしいと痛感する。将に本物の愛国者だと敬愛する。日本の復権はこうした人物が何人現れるか。ここにかかっているのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.26 18:14:19
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