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敬愛する歴史研究者でもあり読者でも有る鈴木国明氏からこうしたメールを頂いた。以下記載。
硫黄島のスプル-アンスは嘘話である 「アメリカの青年達よ。東洋には、すばらしい国がある。」こんな表題がついたネットの文章を、ご覧になった方も多いであろう。以下引用すると 『「アメリカの青年達よ。東洋には、すばらしい国がある。それは日本だ。日本には君たちが想像もつかない立派な青年がいる。ああいう青年がいたらやがて日本は世界の盟主になるに違いない。奮起しろ。」 硫黄島での戦いの時に第五艦隊司令長官として、アメリカ海軍を指揮した、レイモンド・A・スプルーアンス海軍大将の言葉です。彼は戦後この言葉を伝えるべく、全米各地を講演して回りました。彼がこのように日本の事を言うようになったのは、次のようなエピソードがあったからです。 一ヶ月近く激戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出してアメリカ軍が硫黄島を占領した、あくる日のことです。岩山の穴の中から負傷した日本の陸軍少佐が、降伏のしるしのハンカチをもって出てきた。 彼は「司令官はいないか。穴の中には有能な30名の青年たちが残っている。彼らを日本のため世界のために生かしてやりたい。私を殺して彼らを助けてくれ。」といいました。 少佐を引見したスプルーアンスが、「お前も部下たちも助けてやろう」というと、彼は「サンキュー」といって絶命しました。 その後アメリカ軍は青年たちが残っている穴の中に、煙草や缶詰を投げ入れたりして、残された青年達に穴から出るように勧告をしますが、彼等はそれに応じず抵抗を続けました。数ヶ月間の抵抗の末やがて何名かが餓死し、最後に残された者たちは、手榴弾で自決して果てました。 その爆発がした時にスプルーアンス司令官が穴の所に飛んでゆくと、穴の入り口に英語と日本語で書かれた手紙がおかれていました。 「閣下の私たちに対する御親切な御厚意、誠に感謝に耐えません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も、皆で有り難く頂戴いたしました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることが出来ません。最早水もなく食もなければ、十三日午前四時を期して、全員自決して天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を止めます。 昭和二十年五月十三日 日本陸軍中尉 浅田真二 米軍司令官スプルーアンス大将殿」 ――祖国と青年 平成7年6月号――」』 このようなものだがこれは全くの嘘話である。第五艦隊の司令長官が占領後数ヶ月も島に留まっていたとか、英語で手紙を書いたとか、自決するなら靖国神社との言葉が出るだろうに天国へ参りますは無いだろうとか、普通なら色々と不自然な感じを持つであろうが、文末の「祖国と青年平成7年6月号」との文句に、多くの人が騙されてしまったようだ。私の回りにもそういう人がいる。 「祖国と青年」編集部に問い合わせたところ、該当号の前後に亘って調べてもらったが、このような記事は存在しないとの回答を得た。また少しでも戦史を調べればすぐに分かる事だが、昭和二十年の五月十三日には、スプルーアンスは沖縄戦を指揮して近くの海上にいた。だから金日成みたいに分身の術でも使わない限り、彼がこの日に硫黄島にいる筈がない。しかも五月十二日には彼の乗艦に特攻機が突っ込んで、危うく命拾いをしている有様だ。それもあって精神が消耗して、スプルーアンスは五月末に、ハルゼーと交替している。 だからよくも史実を無視した、こんな与太話を書いたものだと呆れるのだが、どの分野にも吉田清治のような存在がいるのかもしれない。 少し背景をいうと、浅田中尉は実在の人で、この話の中の遺書の部分が、即ち少佐が穴から出てきたとか爆発音を聞いてスプルーアンスが飛んで行ったとか、全米を講演して回ったとかいう所を除いた遺書だけは、ほぼ同じ文面が、戦史叢書に載っているのである。硫黄島で浅田中尉の上官であった武蔵野菊蔵中尉という人が、激戦の中を生き延び、昭和二十七年に「硫黄島決戦」という回想録を書いており、そこにこの遺書が出ていて、戦史叢書がそれを採ったのである。 しかし回想録の中の記述は、とても本当には思えないものである。武蔵野中尉はただ一人で敗残兵としてさまよっている時に、偶然出会った一兵士から遺書の話を聞いたと、回想録の初めの方で記している。だから彼自身が遺書を見たのではないし、それを語った兵士の名前も身分も、どういう訳か回想録には記されていない。話に具体性がないのだ。勿論遺書の現物はどこにも保管されていない。それに武蔵野中尉は部隊の指揮官で、敗残兵となってからも常に誰かと行動を共にしていた。彼は回想録の中で最後の同僚の一人もついに死に、餓死を覚悟して海辺の巌の上に数日寝そべっていた所を米軍に見つかったが、その時は体も動かせない状態だったと、回想録の最後のところで記している。ならば一兵士に偶然出会ったのはこの数日寝そべっていた間の出来事の筈であるが、ここでは、それが一切書かれていないのだ。一兵士と出会ったことはまるで落丁のように初めの方に出てきて、まったく整合性のない書き方がしてある。更に出会ったのなら二人で何とか生きようとかの行動を取ったと思うし、遺書の文面は詳細に覚えているのに、相手の兵士の名前も身分も記さないのは不自然に過ぎると考える。つまりは、遺書は武蔵野中尉の創作ではないかとの疑念が拭えない。 それに米軍上陸当日に、武蔵野中尉は司令部から命令を受けて浅田中尉に出撃を命じるのだが、その記述が、武蔵野中尉自身が司令部に出頭するよう命令を受けた事と、輻輳していて、よく分からない。どうも昭和二十七年では、まだ虚心坦懐に戦争を述べられなかったようである。彼の回想録は他者の目を相当強く意識したものに写る。彼は他の部分では出来事の日付と個人名を明記している。部下同僚の追想では必ず誉め言葉を使っている。浅田中尉の人物像も多くの賞嘆の言葉で綴っている。だから好意的に想像すれば、一兵士と出会ったのは同僚と一緒の時だが、その兵士が浅田中尉との自決を逃れてきた者だったので、彼の名誉を損なわない為に、わざと一人でさまよっている時と詳細を伏せた書き方をした、そのようにも考えられる。戦史叢書もそこを読み取って記載したのかもしれない。 米軍が投降を勧告した事は他の人の手記にも出てくるし、日本兵は結構米軍の食料を盗んで食べていたようだから、遺書に肉の缶詰とか出てくるのは不思議ではない。それに武蔵野回想録中の遺書には、「スプルーアンス少将殿」となっている。ミッドウエーで少将だったスプルーアンスは二年で大将に昇進している。恐らく硫黄島の下級将校にはこの情報は届いていなかったと思うから、少将とあるほうが真実性が高い。いづれにしても他に資料がなく、浅田中尉の遺書の実在は、判然としない。 これは私の解釈であるが、浅田中尉遺書は下級兵士の願望から来る、一種の都市伝説的な話ではないか。或る兵士の回想では、数人の残存兵が潜む中で一人の将校が、「俺が米軍に行って殺される代わりに、お前達を助けるように頼んでやろう。お前達は兵隊だから捕虜になった後に、日本に帰っても死刑になることはないだろう。どうだ助かりたいだろう。」そう言ったというのである。兵士が「あなたはどうなるのですか」と問うと、将校は「俺は将校だから日本に帰れば死刑になる」そう答えたので、兵士たちは「冗談はやめにしましょう」と、話を打ち切ったとその手記にある。 兵士たちは捕虜という不名誉を負っても、生き延びたい気持ちもあったのである。それを阻んでいるものが軍律である。上官が犠牲になれば助かるかもしれないと、密かな願望も抱いていて、それが遺書話に昇華したのではなかろうか。上官が捕虜になることを許してくれさえすれば出て行けるのに、しかしそれは叶わない、なあに我々だって日本の武人だとの自負心もあり、それらがミックスして仕上がった、よく出来た話なのではないか。 極限状態に置かれた者は幻想に等しい考えを本気で持つという。連合艦隊が反撃して日本軍の逆上陸がなされる、それは何月何日だとか、筏を組んで北硫黄島か父島に脱出できるとか、真剣に語られていたようである。米軍の缶詰を食べた者には、それはこの世のものとは思えない甘露であった事だろう。缶詰は食べたい、生きたい、しかし許されない、ならば故郷に名誉を残そう、そういう兵士の痛切な希望が伝わってくる話だと、私は思う。武蔵野中尉はこういう兵士の感情が戦後も頭にこびり付いていて、回想録に思わず都市伝説を書いてしまったのではなかろうか。 浅田中尉の遺書が実在したか疑いはあるが、遺書の話が書物に残っているのは事実である。これを材料にして誰かが、スプルーアンスという嘘の尾鰭をつけて、日米軍人の崇高な物語に仕上げて拡散させているのだが、ネットを検索するに、その犯人の一人は、岡村清三という人のような気がする。 日本会議大阪支部の松本という人のブログに、「岡村清三先生の講演で聞いた」として、前掲の文章と同様の内容のものが載っている。ただ一つ違う点があって、講演では岡本は、スプルーアンスの息子からこの話を知らされたとしている。また一住職の本音というブログにも、同様に岡村清三がスプルーアンスの息子から聞いた話として、載っている。但しここでは岡村の講演を聞いたのは、郁鵬社の新しい教科書の執筆メンバーの一員である大津寄章三であり、一住職はその大津寄から話を聞いたという体裁になっている。 岡村清三という人は上記のブログには、江田島の教育参考館の館長であったとある。ならば自衛隊の中でもかなり上位の人だったのだろう。またネットにインタビュー動画があって、戦時中はどうも回天を載せた潜水艦の乗組員であったようである。かなりの知名度の有る人に思えるが、そういう人が真っ赤な嘘をつくものかという、疑問も湧く。しかしスプルーアンスとは無縁の出来事を、彼の息子が偽造して述べるとも思えない。また教科書の執筆者たる人が、基本的な戦史や軍人の役割(第五艦隊の司令長官が一少佐に会ったり、占領後二ヶ月も留まる事など有り得ない)に無知な事も、俄かには信じられない。 前掲のネットの文章は犯人の一人の誰かが、「祖国と青年」の権威を利用することを思いつき、信憑性を高めようと偽装したものだろう。 以上のように、この話が嘘である事は、間違いない。日本精神の崇高さを称揚するのは大切だが、事実に基づいてするべきである。我々は息をするように嘘をつく、中国と韓国とは違うのだ。 以上 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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