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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2015.11.26
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寄稿して下さったのは、県内在住の歴史研究家の鈴木国明氏。
じつは私も以前の通信にこう記載していた。これは、生前の東條由布子女史の講演会で聞いた話しを記載したもの。

硫黄島の自決                 
 江田島記念館館長 岡村氏講演記録(口述)より

 硫黄島が返還されてすぐのこと。自衛隊司令に「島の北の端にアメリカの人が二十人ばかり保安庁の仕事をしている。挨拶に行ってくれ」と言われ、行ったときのこと。日本式の小さな墓が見える。よく見たら森田大尉の墓と書いてあるので向こうの隊長に「あれは何ですか」と聞いたら隊長が次のように説明してくれた。

 陥落した日に森田海軍大尉があの場所で大怪我をして、人事不省なのに無線機を左手に抱いてモールスを打っておる。意識は無いのに手だけは正確に日本内地に向かって硫黄島の最後の模様を打っているようなので、すぐアメリカ兵を一個小隊集めて銃に剣をつけて、捧げ銃で手が止まるまでじっとそれを見守った。その事を教訓にするために墓を立てたんだと得意満足で話をしておりました。

 部屋に行ってコーヒーを飲みながらふと左手を見たら明るい廊下の向こうで若いアメリカの青年が私の顔を見て、手招きして呼んでいる。とんでいったら「君は今日日本から来たのか」「そうだよ」「日本に東京大学はあるか」「ある」「どんな大学」「ハイレベルの大学だ」「そうだろうね」「どうしてだ」と言ったら「私の父はこの硫黄島作戦の最高司令官でした。硫黄島で戦う日本の将兵を見て、終戦後にアメリカに帰って十数年間、死ぬまで、アメリカの青年よ立ち上がれ。アジアにはすばらしい国があるぞ。それは日本と言う国だ。そこにはお前たちが想像もできない立派な青年たちがおる。ああいう青年がおるのなら、ほっておいてもやがて日本は世界の名手になるだろう::と。ぼくはその東京大学が見たい。今度日本に言ったら、案内してくれ」といったけれど私は返事をしなかった。今、東京大学構内を歩いてもそういう雰囲気は見られないのじゃないかと思ったからです。

 どういうことかといいますと、硫黄島の南の擂鉢山の中腹に穴があり、陥落した日にそこから陸軍少佐が出てきた。木の枝に白いハンカチを巻いて右足はもう飛んで無い。左足で這ってきた。真っ青な顔をしている。

「司令官はいないか。司令官はいないか。「何だ」と言ったら、「あの穴に私の部下がまだ三十人ばかり生きている。その中にすばらしい青年が一人いる。日本の東京大学の学生だが、あの男を生かしておくと日本だけじゃない、地球を救うぞ。世界中探してもあんな立派な青年はいないと思う。どうかわしの首を切って代わって彼を助けてくれ。」と言って日本式の挨拶をしたから、司令官が「心配するな。君も助けるが彼も助ける」と言ったら「サンキュー」。ついに息が絶えた。

 司令官が洞穴のところへ行って、「おい、いるか、浅田中尉はいるか、今君の隊長が君を救うために死んでいかれた。出て来い。もう戦争は終わったんだ。内地では君のお父さん、お母さんが待っているぞ。捕虜にしないから出て来い」と言ったら、中から「黙れ。自分のことは自分で決めるんだ。お前たちの指示を受けない。」

「煙草はあるか」「煙草なんてあるか」「よし、やるぞ」と煙草を投げ込むと中からさーと煙が出てきて「サンキュー。口に二本も三本もくわえとる。もう何ヶ月も煙草なんて呑んだことは無いんだ。」「菓子はあるか」「菓子なんかない」「よーし」とチョコレートを投げ込むと「ありがとう」と中で大騒ぎ。「食料あるか」「ない」「よーし」と缶詰を投げ込むと「ありがとう」と丁寧に挨拶をする。缶詰なんて食べたことがない。それが二月のことであります。

それから毎日のように行って勧告するが出てこない。三月四月五月まで頑張った。  
 五月の朝、暗いうちにドーンとその穴で、大きい音がしたので、とんでいってみたら手榴弾で自決して死んでいた。その入り口に、その東大の学生が日本語と英語と両方で、遺書を書いて置いてあったそうです。

 今その遺書は防衛庁にあります。その本文を読みます。

 閣下の私たちに対するご親切の行為、誠に感謝感激にたえません。閣下より頂きました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴致しました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。もはや、水も無く食も無ければ十三日午前四時を期して全員自決して、天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を置きます。
 昭和二十年五月十三日  日本陸軍中尉 浅田真二
米軍司令官 スプルアンヌ大将殿   (後略)終

以上。
個人的には一部創作が入っているとは思いますが、これの元になる話しがあったのではとは思います。が、戦史は願望で語っては成らないもの。

戦史を研究して正確な資料を残すようにと激励の言葉と認識し、自戒を込めて記載しておきます。
もし、議論などがあればお知らせいただきたいと思います。
 かといって日本兵がいかに勇敢に、気高く祖国に殉じられたか、これを疑うものではありません、念のために。、






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Last updated  2015.11.26 15:54:52
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