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昭和18年5月29日、アッツ島玉砕。
この守備隊へ物資を送る役目をしていた艦艇は君川丸。一般貨物船を改造して特設水上機母艦となったもの。私の叔父がこの船に整備技師として乗っていた。 転勤・乗船命令を受けたのは昭和一六年九月。十月、横須賀にて君川丸に飛行機六機を搭載できるように甲板を再整備。一二月八日,開戦の日の偵察飛行が機密任務。 戦後に書かれた叔父の記録をよみかえす。 叔父、神谷菊治の妻がわが父の姉。私にとって心優しき叔母である。戦争中には実家である我が家に子供を連れてよく帰っていた。叔父は開戦日には黎明飛行をしていた。場所は北海道幌延沖。「12時のニュースで海軍飛行隊の大成功を知った。自分も皇軍の一員として奉公している以上そういう華々しい舞台での活躍の機会をひそかに願った。戦争が始まったといっても敵と相対しているわけではなくまた、こちらに敵が向かってくるという情報もないので、さしあたっての敵はこの冬将軍。このような寒冷地での飛行は初めてであるからその苦労はことのほかであった。寒冷地で風に吹き曝されて作業することの困難さ、陸上であれば格納庫があるであろうが、甲板上で吹き曝しである。エンジンは冷えたらなかなか起動しない。・・・・」と記している。 このころしゃけがふんだんに取れ、我が家に送ったとの記載があるから開戦時頃には私の父や家族もご相伴に預かったのだろう。 君川丸艦長についてこう記載もある。 「艦長の宇宿大佐は沈着冷静で大変立派な人であった。航海中は日出、日没時に警戒区域を航行中には総員見張り配置につくのであるが、艦長はその前から起きておられて艦尾にむかって合掌黙祷しておられた。航海中は艦尾の旗竿には軍隊旗がはためいていた。何をいのっておられるのか、一心に六~七分祈っておられた。 「艦長には自分は信任が厚く艦長室に呼ばれてコーヒーをいただいたことがある。」とも記している。飛行の責任者の任務とはいえ異例なのだろう。 キスカではアメリカ人気象兵十二人を捕虜にした。彼らは一度逃走したのでしたが、寒くて生活できないといって戻ってきたともある。 アッツ島へ軍需品の輸送をした際のことについてはこう記載がある。 敵の哨戒飛行の合間を縫ってアッツ島に突入して、荷役は役一時間くらいでやらなければならないくらいになっていた。艦は立錨で何時でも動けるような状態で灯火管制下でやって「午前一時頃」北極圏に近いので、世が明けるのが早いので夜が明ける前迄に敵の哨戒飛行圏から離脱しなければならないのでその荷役は戦争そのもの、暗い甲板上を懐中電灯のわずかな明かりで作業するのである。 守備隊から出ている大発も灯火を消してただ黙々と作業をしている、敵潜水艦に見つかれば本艦なぞはあっという間に撃沈されてしまう。北洋の海中に投げ出されれば一〇分と命は持たないであろう。その時は運よく何事もなく作業は進んだが、夜が明けてしばらくして敵の哨戒機に見つけられた。がそこはそこは哨戒機の行動半径の先端だったらしく二度ほど高こう度から水平爆撃をしてきたが、爆弾は少し離れたところで水柱を挙げた。 やっと虎口を脱した。大湊に入港して、また補給資材を積んで出港した。千島列島の太平洋側は敵潜水艦がおるというのでオホーツク海の北のほうを航海しようとウルップ水道からオホーツク海に抜けるとき、潜水艦から魚雷攻撃を受けた。見張り員が一瞬早く魚雷を見つけ、危うく難を逃れた。君川丸なんぞは護衛艦もなく、単独航海する艦は目立たなく良いが、見つけられたらそれまでである、乗組員は神経質迄、見張り態度を持っていた。戦争は人間の極限の戦いである。倦むことなき朝夕の見張りのみが彼の魚雷を一瞬早く捕らえたため、緊急転舵によって難を逃れたのである。 魚雷の航跡と航跡との真ん中にわが艦がかろうじて入ったとき、音もなく走り去るこの白い軌跡こそ、この生命を断つ魔物かと思うと生と死がこんなにも身近にはっきりしていることがあろうか。本艦が今少し転舵が遅れていたならどんなことになっていただろう。…中略・・・アッツ島への補給命令を受け(これまでに三度した)今度も食料、大砲、弾薬、石炭などを積んでいた。敵の哨戒機が帰るとそこへ突入し、夜のうちに敵の哨戒圏からでなければならない。(敵の偵察機はコジャックからきていたらしい)速力一八節の君川丸にはなかなかつらい任務であった。その日は霧が濃く、視界も悪く、敵の偵察機も飛んでこなかった。 我々は黙々と荷役を終え、霧の切れ間を待ち一瞬の切れ間をついて離島脱出、千島方面に向かう、その一日後アッツ島は敵に包囲され、全員玉砕した。 以下略 キスカを発進した水上偵察機が天候悪化でアッツ島に着水。朝エンジンがかからず注射(ガソリンを気筒に直接いれて始動させる)しても不具合は治らずキスカより予備エンジンを持ち込み修理、その日一泊したその日が敵艦隊によるアッツ島上陸の日。操縦士偵察員電信因整備員一〇名も陸戦隊となり、闘うもむなしく玉砕。 「たった数時間が彼らの運命を変えてしまった。嗚呼。」航空隊の部下の死に就き記載した部分には大きな「嗚呼」の文字。無念極まりなき思いだったろう。 叔父はその後小松島航空隊分隊長に任命され二〇〇名の部下を持ち、のちに欧州の航空兵六〇〇名を受けその教育を担ったりと、終戦に至るまで生死を分かたぬ戦いに従事した。 パラオ横浜の二〇〇〇マイル無給油無着陸の飛行を初めてなした体験も持つ。幸い天寿を全う。 激烈極まりなきアッツ島玉砕。この戦を忘れてはならない。海軍も必死に部隊応援をなしたことも併せて記憶しておきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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