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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2017.06.03
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六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)とは1989年6月4日胡耀邦党総書記の死をきっかけに北京市内天安門に終結した学生市民の民主化要求のデモに対して共産党が無差別発砲をなし装甲車でひき殺した事件。この時、方政氏はひかれて両足を切断された。一昨日の南モンゴルの集会にもお越しになりお話を伺った。。産経新聞が取材記事を載せてくれているので転載

民主活動家・方政氏インタビュー 「中国共産党の独裁政権は、どんな形であれ6・4に触れてほしくない。真相を覆い隠したいと思っている」

 中国人民解放軍が学生の民主化運動を武力弾圧した1989年6月の天安門事件の被害者で、米国在住の民主活動家、方政氏(50)のインタビュー詳報は次の通り。

    ◇

 中国では「6・4」(天安門事件)を記念する活動が弾圧されている。昨年の6月4日の前にはこんな出来事があった。

 四川省の青年4人が、「銘記 八酒六四」というラベルを貼った酒をネットで販売した。中国語の「酒」の発音は「九」と同じだ。事件を忘れてはならないとの意味を込めたのだが、4人は「国家政権転覆扇動」容疑で捕らえられ、今も拘束されたままだ。ほかにも、事件で犠牲になった学生の両親の世話をしてきた四川省の知人が、2年前に刑務所に入れられた。

 中国共産党の独裁政権は、どんな形であれ6・4に触れてほしくない、真相を覆い隠したいと思っているのだ。

 中国では6・4に関わりがある人物、例えば私の名前もインターネットの「敏感語」に指定され、検索ができなくなっている。「6月4日」という日付もそうで、検閲を逃れるために、5月35日と表現する人もいる。

 28年前に天安門広場に集まった私たち学生は、反汚職や報道の自由、高級官僚の資産公開などを求めていた。体制を変えようと思っていたわけではない。経済改革をした共産党が政治も改革もできると期待していた。

だが、私たちが求めたことは、今日になっても何ひとつ実現していない。腐敗はひどくなり、資産は公開されるどころか、高級官僚たちは資産を海外に移動させている。共産党への期待はなくなり、失望ばかりが増えている。

 言論弾圧のほか、教育や情報のコントロールにより、事件を知らない若い人が増えていることを懸念している。これは中国共産党との「記憶の戦争」だ。

 だから、6・4を公共の場での話題にしたい。話題になると関心を持つ人、事件を知る人が増える。6・4が全世界的な話題になれば、中国政府も封じ込めることはできない。

 この一環で、事件から30年の節目となる再来年に、6・4を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(記憶遺産)に申請しようと取り組んでいる。各国の民間のパワーを動員して、この運動を推し進めていきたい。 

 ■方政(ほう・せい)氏 1966年生まれ。中国安徽省出身。北京体育学院卒。卒業直後の89年6月4日朝、天安門広場付近で背後から迫ってきた人民解放軍の戦車にひかれて両足を失い、車いす生活に。2009年渡米。米国の大学などで天安門事件について語るなど、中国の民主化や人権状況の改善を訴えている。

実際の死亡者については諸説があるようですがウィキぺディアによれば以下の記載が。

事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者については、上記の中国共産党による報道規制により、客観的な確定が不可能であり、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり定かではない。また天安門広場から、完全にデモ隊が放逐された後に、中国人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるように、事件後に中国共産党によって、多くの死体が隠匿されたという報道もある。 また、約300名の活動家がパリに亡命した。

ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電の1990年た3月の内容には、軍兵士は下された「無差別発砲」命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させたことが記されていた。またその一方で、天安門広場自体における殺戮の存在は否定され、天安門事件に於けるほとんどの死傷者は木樨地を中心とした北京市西側にて起きたことが記されていた。またソ連の公文書に収められているソ連共産党政治局が受け取った情報報告では、「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている

この事件はその後開示されず、長野でなされた聖火リレー時に、中国留学生が大きなチャイナ旗を掲げて荒れ狂っていた際、マイクをもって情宣された方が天安門の事件を中国語で語り、「君たちが共産党の指示と動員でこうした行動をしているのはわかるが、しかし国に帰ってこうした集会を成せば、天安門事件のように党から虐殺を受けるんだぞ。チベットの人への虐殺者として君らは生きねばならないかもしれないんだ。冷静に党のなしてきたことを日本の中でなら知りうる。宿舎に帰ったら天安門事件を調べなさい。」こうした演説を受けて彼らは本当に静かになったのを私は目撃した。

 中国語がわからぬ私は、彼に何を語ったのか後で聞いて、不思議に思ったのでした。明らかに動揺した学生のようす。彼らはもしかしてチベット虐殺なども知らされていないのかと。

わたしが、チャイナの国旗が振られるのはそれはそれ、日本人が国旗を出さない方が異常と感じ、以来国旗掲揚を必死に始めたのもあの長野の学生の沈黙の不思議さが契機でもあった。

 

チャイナ人民のためにも世界遺産登録運動はぜひ応援したい。南モンゴルジェノサイドも同時に。






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Last updated  2017.06.03 20:08:54
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