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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2018.08.19
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カテゴリ:カテゴリ未分類

昨日のレポートで語った郷土愛教育の一例。

時間がなく犬頭神社と新田義貞の話、深見篤慶と松本圭堂の話、以外に
触れる時間すらなかった大友皇子について記載しておきます。

岡崎市の発行する市政だよりには岡崎百景~私とまちの100のドラマ~の連載がのっている。その五月一日号に古代ロマンあふれる大友皇子古墳と史跡群がのっている。推薦人からのメッセージとして

「西暦六七二年、壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)に敗れた天智天皇の長子・大友皇子は、ひそかに大津を逃れ、岡崎の大友(丸藪之館)に移り住み小針の地に葬られたという伝承があります。大友皇子古墳(小針町)の近くには大友天神社(西大友町)や神明社・皇子御陵碑・皇子館跡(東大友町)などの史跡群が点在しています。歴史ある岡崎の地で万葉時代のロマンあふれる大友皇子古墳とその史跡群を訪ねてみたらいかがでしょう」とあります。

 大友皇子は天智天皇の第一皇子で、天智の後継者として統治をしていましたが、壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自殺したといわれています。しかし大友皇子は自殺したのではなく、身代わりが死に、皇子は一族の者数名と舟で岡崎市の矢作地区の大友の地に逃れ、亡くなられたという伝承です。このあたりの地名も、大友皇子の乗ってきた舟が二つにわれ、舳先のほうが舳越(へこし)、艫のほうが大友の地についたのが、その名の由来であると言い伝えられているそうです。

 

御祭神:天照皇大神、大友皇子、保食神、猿田彦神、建御名方神
所在地:岡崎市東大友町字堀所36

由緒
 「この東大友町は往古入海に沿ひたる処にして壬申の乱(西暦六七三年)大津の軍利あらず。時に大友皇子御舟にて南海を巡りひそかに伊勢の神宮に詣で御玉串を請け更に進んで三河国碧海湾に到り沿岸の地に駐り給ふ。村人相謀り王子の為に館を竹林の中に造りて皇子を住ましめ奉る。今に其処を丸藪と言へり。皇子祠を建て天照皇大神を祀る。当神明社これなり。かくて皇子の御遺跡たるを以って村人此の地を大友と称ふるに至る。後村人等祠を建て大友皇子を祀り大友神社と称す。然るに宝暦二年(一七五三年)五月矢作川氾濫し北野切の災に遭ひ。祠流失明治十二年(一八八〇年)九月再建す。当社は明治九年一月村社に列し明治四十一年十月七日無格社大友神社を合祀昭和十二年十二月八日境内社なる稲荷社。社口社。諏訪社の三社を合祀す。昭和二十八年七月十八日宗教法人となる。昭和三十四年九月の伊勢湾台風により大松が倒れ社殿が倒壊。氏子の献身的努力により昭和四十年十月二十一日立派に竣工し現在に至
る。」

 

 大友皇子は弘文天皇と申し上げます。

明治三年に弘文天皇としてご即位なされたことが認められ歴代の天皇に数えられるようになりました。

実際の御陵は
大津に建てられたそうです。

壬申の乱では琵琶湖の南東から大津へ向かわれたのが大海人皇子の軍勢ですので大友皇子軍が
敗戦後に東の三河に向かわれたのがやや気になる処ですが、岡崎人としてはこの伝承を事実として受け継いでいるのです。

いずれにせよ、子供たちが郷土の
伝承に関心を持ってくれるのはうれしいことです。

 

 






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Last updated  2018.08.19 21:53:46
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