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昨日の会合で、悠紀と主基の斎田がもう決まっているのかとの質問があった。 しかし、秘密主義で斎田の点定を成すことは今の世では不可能。ならば地域社会の合意協力を得て堂々と為すべきではないか。さもなければ30年前の踏襲となってしまう。即ち斎田での御田植祭りなどの神事なく、植え終わった実りの前にこの地の米を献上してくださいと指定、刈り入れもコンバインでなどの、祭祀とかけ離れた献上米による大嘗祭の実施となり、その後の名誉の継承もなされにくい。 では本来はいかにあるべきなのか。 岡崎の中島でなされた大正天皇の悠紀斎田を改めて振り返ってみなければなりません。 明治42年の紀元節(2月11日、今の建国記念の日)に公布された登極令にもとづいて厳格になされたのが大正天皇・昭和天皇の大嘗祭です。 皇位の継承を「大礼」と言い、旧皇室典範第十一条「即位の礼及び大嘗祭は京都においてこれを行う」・登極令第四条「即位の礼及び大嘗祭は秋冬の間に於いてこれを行う」にもとづいて執行せられた。 「即位の礼」は万世一系の皇位を継承せられる式典で、先帝の崩御と共に即時に行わせると記載せられる。皇位の継承であるが。先帝崩御の諒闇の初めには践祚というが、諒闇が明けると即位と申された。 「大嘗祭」は天皇ご即位後初めて「豊葦原千五百秋瑞穂国」の新穀を以て皇祖・天神地祇を悠紀・主基の両殿に請饗せられ、天皇も饗せられる祭で大祭とされる大切な祭りです。 大正三年一月十七日には日程(治定)が決定。即位の礼は十一月十日。大嘗祭は十一月十三日となる。、二月五日に「斎田点定の儀」を行う事になり、大礼期日は一月十七日に官報号外として発表せられた。 「斎田点定の儀」については地方の協力に基づくもので、登極令第八条「大嘗祭の斎田は京都以東以南を悠紀(ゆき)の地方とし、京都以西以北を主基(すき)の地方とし、その地方はこれを勅定す」・同令九条に「悠紀主基の地方を勅定したるときは宮内大臣は地方長官をして斎田を定め其の所有者に対し新穀を供納するの手続きを為さしむ」ということで、県名が指定され、其の県のいずれの地域が斎田を担当するかという具体的な作業に入ることになった。 二月五日午前十時、皇霊殿(宮中参殿の一つ)の前庭において、「斎田点定の儀」が行われることになった。この斎田は大嘗祭に供餞用の新穀を造るための斎み清める田とされた。この神殿の前庭に神籬(しんり 竹を編んだ垣根)を設けて卜庭の神(太詔戸命=ふとのりとのみこと と 櫛真知命=くしまちのみこと)の二神が卜占を司る為、祭って「亀卜」(きぼく)を行う方式であった。亀の甲羅(帝国博物館から譲り受け、小笠原の亀)で長さ八寸・二十四センチ幅五寸・十五センチの大きさに表面に縦一条横上下二条の黒線を引いておきひびの割れ目で判断されたのだそうだ。 結果、 悠紀地方 愛知県 主基地方 香川県 と判断され、大礼使長官から総裁に言上され上奏、裁可せられて勅定され、翌日、官報で発表された。 三河国は過去に於いても三度悠紀斎田点定の歴史がある。選定されるかは県民としても大変興味関心があることであった。斎田設置の光栄のみならず、三河国の、今の豊田市からは神服の御料糸を、瀬戸よりは神御の雑器を献納することになる。斎田点定により政府は、一連の式の費用としての予算について貴族院・衆議院において満場一致で決定し、大嘗祭斎田地における「免訴」に関する法も決定し、三月三十日に公布された。 しかし、四月十一日昭憲皇太后の崩御に伴い、登極令第十八条「諒闇中は即位の礼又大嘗祭を行わず」によって一時中止となり、大礼使廃止も官報号外で発せられた。斎田については、四月十七日に「そのまま存置せらるべし」との沙汰が発表せられた。
大正三年二月五日、悠紀斎田として愛知県が勅定せられた。この結果によって、二月六日に宮内大臣より愛知県知事に通達が発せられた。 「来る十一月十三日に行はるべき大嘗祭の斎田は・・・管下に於いて斎田を定め所有者に対し新穀を供納するの手続きをなさしむべし。但し斎田を定めたる時はその所在面積及び所有者を報告すべし。」 とあり、続いて宮内次官より 「供納すべき新穀は白米一石 供納の期日は大正三年十月十八日迄 場所は京都皇宮宮内省出張所」 と定められた。これを受けて愛知県知事松井茂は二月十一日に上京をして斎田に関する事務の打ち合わせをして十六日に県に戻り、斎田選定のために十八日各郡長に「至急必親展」を命じて二月二十三日までに報告する事が命じられた。各郡長に対して注意事項が発せられて「直接に調査をして他に漏れざるように」「本件に関して運動など起こらざるように」と十分注意をし、斎田選定の用件が十点した。 一、斎田所有者は篤農家たること 二、所有者は、資産を有し徳望ある者 三、所有者・家族は健康者たるべき事 四、斎田面積は三段歩乃至四段歩なる事 五、所有者は一名のこと 六、斎田は交通が便利な場所 七、斎田は風水旱害などの発生の少なき場所 八、斎田は汚物混入せざる用水を灌漑し得べき場所 九、斎田は乾田なる事 十、斎田は耕地整理の場所 と決めた。 此のことに対して、十一件の斎田候補地が報告せられた。 一、東春日井郡志段味村(名古屋市守山区)産米の品質最も佳良なり。早稲は九月中に収穫は可。 二、西春日井郡北里村(小牧市)乾田にして用水良好。風水害の患無し 三、丹羽郡楽田村(犬山市)清浄なる入鹿池の用水を灌漑す 四、葉栗郡羽栗町(江南市)風水害無く用水は多田用水による。 五、中島郡稲沢町(稲沢市)田畑一兆部以上、郡内屈指の資産家、小作人間に徳望が高い 六、知多郡阿久比村(阿久比町)阿久比米の上米の産 七、碧海郡六美村(岡崎市)米質佳良、明治四十五年以来農事試験場の採種田を設置。土地肥沃、風水害無く、用水は高橋用水を利用。 八、額田郡幸田村(幸田町)子弟の条件に適合。所有者は資産家で公職に就く。農事の開発につくす。 九、南設楽郡千郷村(新城市)米質佳良にして酒造業に当てられる。自治の進行・産業開発に優良で文部大臣の選奨を受ける。野田側の上流引用。 十、宝飯郡一宮村(豊川市)報徳社の共同苗代田に充てる。本宮産の渓流を引用。 十一渥美郡野田村(田原氏)模範村所有者は地方改良の篤行者として表彰
の十一ヶ村の報告を受け、二月二十四日知事は内務部長・技師らと郡長の回 答の候補地を六を仮定して内務部長などを実地調査に入れた。 二月二十六日から調査し、東春日井郡 西春日井郡、中島郡 碧海郡 南設楽郡 渥美郡の六箇所に候補地が絞られた。 三月二日に候補地が西春日井郡、中島郡、碧海郡の三箇所に絞られた。ついに3月6日に 一、斎田の所在 碧海郡六ッ美村大字中島字上丸の内 二、斎田の面積 四段歩 三、斎田の所有者 碧海郡六ッ美村下中島五十九番戸 平民農 勲七等 早川定之介 の発表がなされたのでした。 翌日の七日、午前十時半、斎田決定の伝達式(上から下に注意・指示をしらせる)により、郡長・尊重・所有者が県庁に行き、心得の一、斎田の取扱い、耕作は総て県の指揮をうける。二、供納は白米一石。三、供納日時は十月十八日と決められた。 早川定之助氏は早川家第五代目の戸主にして身体強健資性温順、農事に精勤し、地方に於いて声望有り、撰ばれて尊重助役郡村会議員収入役の名誉職に就き三十七・八年においては中島村長として出生軍人の後援努力し,其の功績を認められて勲七等を受賞された地元の名士であった。 中島は、資料によれば「上古宇麻志手命(うましあてのみこと ににぎの命の次男)の後裔三河国造知波夜命の治下にあり・・・から始まって今日にあり」とある。 しかし、 大正三年四月十一日午前二時十分。昭憲皇太后が崩御せられ、世は再び諒闇となり、登極令第十八条の「諒闇中は即位の式及び大嘗祭を行わず」により、勅定された期日には行わない旨が告示された。 四月十七日、斎田作業は継続と確定した。十八日宮内大臣より「大嘗祭の田は以前に勅定されたまま存置の事に決定相成る」と通牒せられ、二十二日県の広報号外に斎田の存置の旨を告示した。 村の資料には、 「闔村(こうそん 村全体)雍雍(ようよう 穏やか)熙熙(きき 安らぎ楽しむ)たりし我が六ッ美村は、昭憲皇太后の崩御によりて失望落胆哀悼の中に諒闇を過ごす事となりしぞ。・・・されど斎田は其の儘存置さるる事となりしを以て、村民は唯畏みて他日大命の下るを待てり。」と記されている。 諒闇中の斎田は郡農会採種田として「万歳」種を栽培した。この品種は最も重要な事にして、供納米は十月中旬の頃で有るため、遅くとも九月下旬には刈り取りを行わなければ成らず。早稲種を選択せざるを得なかった。早稲種の三種(早生・愛国・郡益)の中から郡益が米質最も佳良にして、「県下においても幾多の種中まれに見るところなり」として名誉を永遠に記念して、「聖寿之万歳」を祝して「万歳」の名称をつける。(純米大吟醸 萬歳 悠紀斎田百周年祈念之酒は復刻された稲品所を使って完成され、今も販売されている。岡崎市丸石醸造) 神社(村社・八幡社)と斎田地との間の桑畑の一部の十五坪(県の資料は十四坪)に起床観測所が設置され、県の観測所と連絡され、毎日二回、気温・地表温・降水量・風向き等々を観測する為に諒闇明けと共に取り付け四月十六日から観測を開始した。克明に記録されて稲の成長具合を知るには大事であったとある。この八幡社には後に大正天皇をお祀りする大正宮が建てられ今に至る。 悠紀斎田の御田植祭りの日(6月第一日曜)にはここでお役目を担う主要な皆さんが厳粛な催事を成されて、それから御田植が始まっていくのです。 その名誉ある悠紀斎田をいただく中島の皆さんは3年前には秋篠宮両殿下をお迎えして100周年の大きな祝賀の式典を成された。私どもは7千本の小旗を作り奉迎申し上げた。昨年は103年目。 この様子はチャンネル桜さんの取材をいただき、葛城さんが説明に入ってくださった。式典の様子はユーチューブで今もみられる状態です。ちなみに今回岡崎建国など愛知県下5会場で建国祭を成す講師としてお越しいただく村田春樹先生のご尽力で放映となったもの。当日は所功先生の講演会も開催し多くの市民町民の方に大嘗祭と悠紀斎田の意義につき学びました。
かくのごとくに斎田の御田植祭りは岡崎において大切な民俗文化として継承されているのです。 こうした厳粛な斎田選定とそのご奉仕があって初めて陛下にお米を献上できるのです。安直な形で大嘗祭に饗されるお米を作るのは全くあってはならぬことなのです。
政府には十分な配慮を願わずにはいられません。
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Last updated
2019.01.21 23:10:39
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