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町内地蔵祭りを開催する。皆さんに以下の文を印刷して配布して概要の説明をしておいた。 秋地蔵祭 開催にあたって 会計 杉田謙一
お堂の柱や板塀なども年季物で相当の汚れがあり、板塀も腐りかけ、全面扉も色つやなし。扉の重みで左の高さが7・8センチ低くなってしまっていた。平行四辺形状態。これでは参拝くださる皆様に申し訳ないと、会長市川さんと修復に入る。 主な修復 扉 何とか長方形に戻す。もとに戻らぬように添え木を打ち込み見栄えを良くし、左下に鉄の板を張り付け重みに耐えるようにした。黒ずんだ表面をバインダーをかけて元の明るい板目を出した。上部に色つきの幅木を打ち付け色のバランスをとる。上部の傾き部分を修復する。羽目板部分は表面の水拭きで明るい色に戻す。 外壁面 下3枚を新しい板に変え、添え木も新品に変える。水洗い。漆喰は布で汚れをとる。 コンクリート始末 正面及び左側面下のコンクリを塗りなおす。裏手の土面をコンクリにする。右外の地面を石の四角板を敷き詰め、奥は砂利石を敷き詰める。 内部 柱の磨きと板部分の水拭き
地蔵祭りは年2回。地域の子供たちの健やかな成長を祈り毎年開催されてきているが、主役の子供たちが全く参加されないままとなっている。ご熱心な奇特な方のおかげで尊き祭礼が続いてきたが、今後のことを思うと不安もある。 今年からなんとかにぎやかにしていきたいと思い作業に入った次第。 神社の祭りや元旦での参拝には4・500名が集われますが地蔵様にはご参加者の減少状態。町内の文化や歴史が後世に伝わらなくなる恐れがあります。 そこで資料を作って皆さんに郷土の暖かい歴史を感じていただくことにし、この資料を作ってみました。勝手な資料ですがご参考までに
のど赤きつばくらめ二つ梁にいて わがたらちねは死にたもうなり 斎藤茂吉の歌です。母を亡くした悲しみが燕の姿を見ても思い出されてならないとの歌でしょうか。 戯れに母を背負いてそのあまり 軽きに泣きて三歩歩まず 石川啄木の 育ててくださった母親への感謝の気持ちに感銘を覚えます。一人で大きくなったつもり、心配性の母に、もう十分大人だからい詰めでも子ども扱いしないでほしい。俺が今度は負ぶってやるから背中に乗れよ、こんな何気なき戯れで母を背負うが、あまりの軽さに愕然。今までどれだけ苦労を掛けてきたかを思いめぐらせ年老いた母に申し訳なく思わず涙がこみあげてくる。敬愛する企業の入社試験では必ず母親の足をあらってこさせてその感想を記す ことを必須としているそうだ。レポート記載が義務とはいえ母親は照れ臭そうにしてなかなか洗わせないらしいが、入社がかかっている。無理やりのものもいるそうだが、ほとんどの体験感想文では母への深き感謝の言葉が継図られているとうかがう。すごく意味ある試験であると思う。 形になって残っています サトウ ハチロー 私がうれしい時に独り言を言うのは母の癖が移ったのです。 —これもどなたにも大なり小なり映っています 私は母から譲られたものを大事にしています ―そうしてそれが出るたびに遠い遠い日のように母の名を呼んでさみしく甘えます
親思う心に勝る親心 今日のおとづれ なんと聞くらむ 吉田松陰 冤罪により死刑を申し渡された松陰先生。自分が母を思う気持ちなど比較にならぬほどの母の子を思う気持ち 刑に服するわが身をどれほど悲しまれるであろうか。母の愛は山より高く海より深き永遠のものであります。さらに松陰先生は およそ生まれて人たらば宜しく禽獣と異なる所以を知るべし。けだし人に五倫あり。而して君臣父子を最も大とす。ゆえに人の人たる所以は忠孝を以て本となす と語ってみえます。人の人たる所以は忠孝を以て本となす。これなくして人とは言えぬと。かみしめたい言葉です。 身勝手な生き方によりどれほど親に迷惑を、心配の限りをつくさせてしまったか。親を思う気持ちに倍する両親の愛情にこたえきれなく果てる松陰先生のつらさを思わずにはいられません。 シャボン玉 野口雨情 シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
野口雨情は啄木とともに新聞記者も勤めた童謡作家。。妻のひろとの間に、長女「みどり」をもうけた。人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、2~3割の子供が学齢前に死亡していた。そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。雨情は後に生まれた娘・恒子も亡くしている。当時、2歳。1924年(大正13年)9月のこと。 ある日、村(茨城県多賀郡磯原村)の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だといわれている。異説はありますが。野口雨情の悲しみを共感します。 私も六ケ月で腸ねん転で亡くなった弟が。仕事に追われた父は名古屋への通勤時に毎日お経をあげ、父のお経の本はもうボロボロになっていたと母から聞きました。父の意外な姿を母より聞いてびっくり。生きていた時に聞いていさえすれば。孫とシャボン玉遊びをするときは私も常に野口雨情のこの歌を思い出します。 今日の子供の参加は4名でした。初めての取り組みでしたが来年は二けたを目指したい。人の子やお孫さんの成長を喜んであげたいものです。 千波の今日のお勤めの天白真央師のお話にもシャボン玉の話をさわりに使っていただきました。 二宮金次郎(尊徳) 父母も その父母も わが身なり 我を愛せよ 我を敬せよ 自分の存在のためには両親が必ず見え、その両親にも必ず両親が見える。直接命を受けている先祖は20代さかのぼるだけで100万を超える。その誰一人がいなかったならわが命なし。私どもの命はまさに奇跡のたまものなのです。 だからつまらぬ人生はなし。自己の尊厳を守ることは両親その両親、先祖の名誉を守る事でもあると言って見えるのではないでしょうか。自らを敬愛しないものは先祖を貶めることと同義なのでしょう。 今日本人として生まれ出る子供たちは年間100万人を切ってしまいました。戦後は堕胎罪がなくなりしかも親の経済的な理由で堕胎された赤子は年100万とも2百万とも。もう少しすれば目が見えて足が使えすばらしき笑顔を振りまく子供が誕生するというのに。とすれば、命ある私どもを生み育ててくださった両親はいかに尊き価値観を持たれたかを深く思うべきでありましょう。 生まれることができたことの幸せを忘れていたのでは申し訳なき事です。 哲学者ルソーはすべての子を育てずに施設に託したではないですか。親に育てられた幸せ これらを感じていきたいものです。 〇ちなみに尊徳の哲学の基本は 『道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。』 『大事を成さんと欲する者はまず小事を務むべし。』 『それ小を積めば大となる。(積小為大)』 我田引水とは思いますが二宮尊徳先生と岡崎には不思議な縁があるように思います。尊徳先生は1787年9月4日の生誕。没年は1856年11月17日。神奈川県小田原市栢山にあたる相模国足柄上郡栢山村ご出身。百姓であった二宮利右衛門の長男。小田原藩の家老の財政を立て直したり、村々を再興させたことが評価され最終的に幕府の家臣となったかた。幕臣に取り立てた後に赴任された小田原藩の藩主である大久保家の分家である宇津家が治めていた下野国桜町村を復興させるように命令をうける。金次郎は当時流れていた穴川用水を改造。お助け堀を作り桜町村の収穫高を見事に上げて見せた。宇津家は財政を立て直すことに成功したのです。 全国に広まった二宮金次郎の石像は、コンクールで賞を得た岡崎の石屋さんが全国に回り岡崎産の御影石を使って彫刻し民間が小学校に寄贈して全国に広めたものと聞きます。その第一号は豊橋市の前芝小学校。しかしその像はまきを背負うのではなく、海の街ですので魚籠(びく)をせおっていますが。 その小田原の藩主が大久保忠世(ただよ)です。 小田原城主となり小田原の代々の大名の祖とされます。藩は後に尊徳公を敬して農民生活を守りぬいたことでも有名です。忠世は天文元年(一五三二年)、徳川氏家臣・大久保忠員の長男として誕生。 大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康から松平・徳川氏に仕えた。その居城はここ上和田。公民館の場所近辺と考えられています。忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから伯父・大久保忠俊の本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に味方を励ます目的で、天野康景とともに武田氏の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという。この逸話は弟・大久保忠教(彦左衛門)が著した『三河物語』による。 また、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に家康が甲斐・信濃に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、依田康国の後見を務めている。一時期、家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、井伊直政をたしなめたりしている。 天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられた。 そしてその先祖がここ上和田地蔵堂の裏に立つ大久保一族発祥の地の碑文にも記されているように上和田城を築いた宇都宮泰藤。泰藤は主君新田義貞公の首塚を犬頭神社に築き、家督を息子に譲り僧侶となり妙国寺を開き、新田義貞公をお祭りされたと記録されています。宇都宮氏は羽根の八幡稲荷神社も建立。宇都宮の姓は後に宇津さらに大久保となる。 一向一揆の激戦地上和田城の戦いにも大久保忠世も彦左衛門も参戦。若き家康公を守る。ちなみに上和田城の防衛線で家康を守って命を落とした方が隣の碑の土屋長吉。1月11日のご命日に慰霊祭を有志にて行っています。午前一一時半頃です。一向一揆戦の手打ちは戒壇巡りで有名な、上和田浄殊院です。 なお隣の杉田三郎様の碑ですが二宮尊徳先生や都築弥幸先生のように、村民のため資材をなげうって用水を引き、農業が豊かにできるように尽力くださった方です。 私の夢の一つは大久保忠世つながりや金次郎石像つながりで岡崎(上和田)と小田原市と交流が持てないかということ。そのためには町の中で大久保氏のひいては勤王の城主宇都宮泰藤公への認識と敬意が育たねばなりませんが。
一時半より開始の鐘をつく。室外での法要と説教所内での法要さらに説法。本日の勤行は天白真央師。わが友、中学同級の天白松嵐氏のいとこのお子さんに当たられる方。 三時過ぎに終了。後五名の役員であとかたずけ。のぼりやテントなどを撤収。大きな町の役目を終える。 母と墓参りを済ませ本日のメイン行事を終える。 以後、名古屋の「芸術祭」への対応。九州からも激励の電話が。 先に記した天白 松嵐氏は、今は京都にすむ染織家・画家。図案にヒエログリフを用いた作品を制作している著名人。現代の日本で浮世絵を描ける唯一の人物ではないかも言われる。彼の作風Hこそ現代芸術の先駆というべきではないかと私は思う。
少なくとも「表現の不自由展出品作品」作者の非芸術性などとは格段の差をもつのは一瞥すればすぐにわかる。不自由展作品を「芸術」とみる津田大介氏や彼を登用した愛知県知事には「芸術」とは「平凡極まりなき反政府政治主張」としか見えないようですので、芸術論は語っても無意味なのだろう。 六時半より仕事に入る。一一時終了。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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