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母を眼科医に送る。自宅に戻り資源ごみ収集の整理を成す。今日はビン収納ケースが足りず再度来てもらう。収集車運転手はなかなかの好青年。2度目の収拾も気分よくやってくれた。 通常よりも7箱分ビンが大量に出たわけであるがこれは廃業した方が残していったもの。本来はこまめに処分していかねばならぬのに、まあ廃業だから悲しみも悔やみも多いだろう。いつも家の前の草も側溝の泥も未処分だったので、瓶や缶の処分は手伝って、交換条件として草や側溝の清掃だけは行ってもらった。引っ越すにあたって何か一つは地域のために成してから終えたという体験を持ってもらえばよかろう。何事も逃げてはならぬ。本人の将来のためにもならぬ。 大量の瓶が出ていた理由を運転手に言うと、一言「なるほど。」 大したものだ。 市の職員というが、これだけ謙虚にしかも素早く積み込みをする姿勢を見てうれしくなり、缶コーヒーを差し入れしておいた。 我が家の整備もあともう少し。ブロック塀を白く塗ってその前部分にブロックや直方体の意思を引き詰めその上に父の焼いた神武像らしき焼き物や巨大な鬼瓦などを置く。捨てるにはあまりにもったいないし父の残した年代物だから簡単に捨てるわけにもいかぬ。 父の理解者であるH氏がお寺の勤めの案内をお持ちくださったので町の公民館の地面の修復状態や地蔵堂の修繕の様子を見ていただく。さらに町の昔の資料をお見せし、なんとか令和の御代を寿ぐ建立物を設置することへの協力を相談する。 本当に筋を通される方。町の名士でみえ、私の活動に対する最も良き理解者である。むろん町の歴史を知るもはや唯一の方であろう。神社の狛犬建立時には近隣の方も一部入金があったとはいえ42人が一人13万円ずつ寄付を下さり設置にこぎつけた。わが町は当時70数軒だったそうで貧乏な町。それでも500万以上の資金を集め盛大に披露を成している。今は町内だけで1000軒を超えていながら護国神社の奉賛金すら集めようとしない現実。当時と比べ豊かになっていながら。 やはり平成の御代中、町の成り立ちの歴史を伝えてきていないことがかかる現実を作ってしまったのだろう。犬頭神社には実に立派な日清日露戦役の慰霊碑が立っていながら慰霊祭も清掃奉仕も途絶えたまま。もう一つの比蘇天神社は月一の清掃奉仕は成されているが。これでは祖国に殉じられた方々に申し訳が立たない。 令和の御代への転換を機に犬頭神社の忠魂碑の清掃をも成していくことにする。何事も絶やすのは良くない。継続こそが将来の復活のための必須条件なのだ。 豊田市議会の傍聴に行く。原田市議の質問である。令の芸術祭への市の出費は7000万。問題のご真影焼却の映像は成さないとは決まってはいるが、市税の投入があるわけで、これで終わらせてはならぬ。豊田市としても強く抗議を成してもらいたいものだ。 一緒に傍聴したS氏のご自宅へ行き8日の下呂楠公回天祭傘下の要請、焼却映像展示抗議署名用紙をお渡しする。 豊田にても左の立場からの戦争展が行われていることを知る。なんと32回目だっと聞く。戦争の悲惨さや二度と戦火に会うことがあってはならないとの主張。耳障りの良い万人共通の思いではあるが、国家意識が違う。日本が戦争を起こしたなどの価値観での展示で、米国の野望や経済締め付けなどの戦争原因の追及があまりにずさんとの説明を受けた。さもありなん、 今朝のNHK高校講座でももうほとんど日本の主張を語らず、日本の侵略論に終始していたとの話であります。日韓併合を日本の半島植民地政策と語り日本悪玉論の展開に終始していた。まずはNHKの教条主義を何とか変えねば世の中の認識が変わろうはずがない。前途多難であります. 来年は三島森田両烈士の自決50年の年。改憲派この時を逃すわけにはいかない。それにしてももう50年もたつのか。申し訳なさでいっぱいになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
豊田市でも愛知県と同じ趣旨の反日展示会を32回もしていたとの事、大村知事と豊田市長とが仲良く裏ピースをしている写真も見ました、反日で意気投合している様子でした。
原田市議が反日展示会に使われた7000万円について市議会で質問してくださったとの事、日の丸手作り会にいつも参加して下さっていますから、これからもずっと支援します。 個人的には前年末に豊田市の市道を走行中に車が大破して数10万円の損害を被りました。警察の事故証明やドライブレコーダーで事故の事実が有るのに市長名で賠償には応じないと言ってきました。 それらの件で、豊田市長の程度の悪さを知りました。 下呂の慰霊祭に参加させてもらって良いですか? (2019.09.04 03:59:43) |