草莽の記    杉田謙一

2019/09/24(火)01:16

九月二十四日は西郷隆盛の命日

九月二十四日は西郷隆盛公のご命日です。 西南戦争は西郷が育てた優秀な私学校生徒ら一万二千人が立ち、明治政府に異議を申し立て、第二維新を成し遂げねば日本は蘇らないと立ち上がった戦であります。 七ヵ月に及ぶ激戦の末、西郷は被弾し、割腹。介錯は別府晋介。西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社(日本赤十字社の前身)が活躍した。ちなみに愛知岡崎には奥殿町があるが、ここに奥殿藩があった。当時の藩主は松平(乗謨(まつだいら のりかた)第8代の藩主で、幕府のを務めた方。朝廷との交渉役を務めたり陸軍総裁にも任じられた有能な人物。藩政ではフランス式の軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成する一方.殖産興業蚕種・生糸の増産など国力の増強にも努めたかた。戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任し幕府との訣別した。新政権に帰順したのである。松平姓を改め母方の大給と改姓。この自ら大給恒(おぎゅう わたる)とした。とくがわのままでは新政権によからぬ印象を与えてしまうからでありましょう。戊辰戦争やこの西南戦争に多くの民が負傷したが、敵味方に分かれて戦おうとも、終結後はノーサイド。彼らに正義を尊ぶ心をみ、負傷兵は立場の違いなく手当を受けることができる組織を作るために尽力、会の名は博愛社。後の赤十字社となる組織である。よって亘氏は赤十字の母と呼ばれ尊敬を受けている。 さて西郷隆盛公の下野の原因となった征韓論について誤解のないように語らねば。、、「征韓論」の文字から、西郷は朝鮮の征服を目指しただの侵略者だのと今の学校教育では教えられている。実はさにあらず。 李氏朝鮮は明治以来日本との交流をかたくななまでに拒否。しかしロシアの南下、侵略の前に日本は日朝関係の改善をなんとしても急がねばなかった。西郷は自ら遣朝大使として朝鮮に渡り、誠心誠意日本の朝鮮の友好を実現しようとした。しかし朝鮮は日本の開国を欧米列強の植民地となったと解釈、国書すら受け取ろうとしなかった。西郷は開国の必要性を単身渡朝し、語れば必ず分かり合えると信じていた。しかし、これを止めた大久保と対立、下野したのであった。けっして軍を伴わぬ、単身渡朝の対朝鮮談判政策であります。侵略などと語る人たちは勉強不足であるといえましょう。しかし悲しいことですが、学校で侵略と習った人は試験ではそのように書くしかないですし、一生その認識で誇りを失わされ、韓国人への劣等感を抱いて生きる。韓国は常にその認識を以て教育に当たる。 日本では西郷の征韓論を「韓国征服論」と教える教師がほとんど。これとて社会科を教える教師は言葉のイメージで誤った教え方をなす典型例。大問題であります。 さらに不平士族の反乱の代表者のように西郷を否定的に教えたがる教師も実に多い。藩閥政治に走らざるを得なかった大久保も時代がなせるものとしてみなくてはなりませんが、かといって西郷を頑固な陋習の信奉者として語る愚は犯してもらいたくない。維新の腐敗を正し第2維新を目指した聡明な人物であることを大いに語らねばなりません。さてもう一つ。NHK大河ドラマでの西郷の終焉は流れ弾に当たって倒れたとされたと記憶します。驚きました。どうしてこうした結末にしたのか。 ウィキにおいてもこう記載があります。 西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。享年51(満49歳没)と皇居に向かい正座して割腹なさったと私は感動をして父に聞いたことがあり、それを信じているのですが。 中日新聞による驚きの報道。北朝鮮ミサイル、探知できず 政府、低高度で複数回 北朝鮮が五月以降、発射を繰り返した短距離の新型ミサイルに関し、日本政府が複数回、発射後の軌道を探知できなかったことが分かった。複数の関係者が明らかにした。日本を射程に収める可能性があるミサイルも含まれていた。低い高度や変則的な軌道のため捕捉できなかったとみられる。日本政府は北朝鮮が既存のミサイル防衛網の突破を目指していると分析しており、技術開発の進展に危機感を強めている。  以下略中日の記事のため、いかなる意図かは測りかねるが、事実とすればゆゆしき事態といえよう。弾道ミサイルならば放物線軌道をたどってとらえることがたやすいのであろうが落下時に方向などの進路変更操作を組み込んできたのだとすればイージス艦の配備をさらに増加するなど対策を講じねばならない。中日はこの記事を載せた以上、国防の主張をしなければならぬはずだが、まさか韓国は軌道を的確に探索できたといわんがためではなかろうに。。 さて今日はずっと国旗掲揚のチャンスを見計らっていたのですがこの雨風のためついに断念、事務所と我が家、さらに近隣の2神社のみの掲揚に終わってしまった。残念ですが致し方なし。町内お寺のお役のIさんが来てくださりさまざまに話した。旗日には孫に掲揚をさせているのだそうな。是非町内から広めたいものであります、 

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