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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2020.01.11
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カテゴリ:カテゴリ未分類

今日は1月11日、マイナーながら地元の石碑に残る土屋長吉のご命日である。氏は若き家康公が人質時代を脱却して念願の岡崎城に入ってしばらくして勃発した三河一向一揆時に、主君の矢面に立って絶命された方。まだ23歳。出は元は平氏。土屋家一六代の人。家康の統治がいまだ安定せず、戦の兵糧米を確保するために年貢取り立ても厳しかった時のこと。疲弊に苦しむ浄土真宗門徒や兵士らが決起し近隣の寺院に集結。進むは天国退くは地獄との強固な信念を持つ農民や武家からなる決起軍の攻め込んだ主戦場になったのがわが町。上和田の地。岡崎城の南方にある和田城であった。岡崎城を出て和田上に駆けつけた家康公に大軍が襲い掛かった。これを撃退する軍勢は主に大久保一族。

大久保一族は元は新田義貞公とともに後醍醐天皇を助けて足利尊氏と対峙した宇都宮泰晴を始とし、のちに宇津。大久保と性を改めた一族。のちに小田原城主になった忠世や三河物語で有名な大久保彦左衛門などを輩出。

よって今の上和田公民館には大久保一族発跡の地なる巨大石碑が土屋長吉の日の隣に安置されている。

その大久保一族は家康公を守る主力。はじめは一機軍にいた土屋長吉は主君家康公の危急を知り、家康公の馬前に立ち一機軍と対峙、矢玉にあたって重傷を受けた。形勢が変わり一揆軍は退くが、ついに長吉は家康公の手を握りしめながら絶命。これを詫びて家康公は長吉の栄誉を称え塚を築く。その地は我が家の東にあったためそこに石碑が立てられたが戦後になって農地改革に手我が家の西に移転され、今もそこに安置されている。

長吉の石碑と、隣接する大久保一族発跡の地の石碑を掃除し終えて祭礼の時間を待つ。前の町総代役員の方がお越しくださった一一時に祭礼を始めた。大祓の言葉を読み上げ、さらに祭詞を申し述べてのち終了。

 思うに、様々な地に様々な碑が残されているがたとえ神社仏閣とされていなくとも義に生き、忠に励んだ尊き先人の顕彰をなすことは地域にとっても愛国者の道としても重要なことではあるまいか。国民道徳はまさに郷土の偉人を称えるところから始まるのでありましょう。むろん国民的な英雄を語り続けることも重要であるが、ともすれば遠き人、本の中だけの人と感じ、知識だけに終わり勝ちではないか。これは避けたい。まずは身近な地域の英雄を祭り、郷土を愛する気風と誇りを持つことを心掛けたい。

偉人を遠く眺めるのではなくもっと身近に。

靖国参拝がかなわぬ時は、地元の護国神社に、さらに地域の氏神様に。参拝だけでなく清掃奉仕にかかわること、その中で見えてくるものがあるのだと私は思う。国の安泰を願う人はぜひ建国の行事に参加し、または自ら主催していくことを目指していきたい。日本を知る重要なチャンスでもあります。

 

 






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Last updated  2020.01.11 12:50:18
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