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昭和天皇が全国御巡幸に行かれて国民とじかにお会いくださり戦後の復興を願われたことは敗戦の悲しみに打ちひしがれていた国民へ大きな希望を与えるものであった。 終戦直後、米国は国策上、沖縄を自国領にしたがっていたようにも聞きます。サンフランシスコの条約締結時にダレスをお呼びになり沖縄の統治権を米国に預けるのはいたし方ないことだが主権は日本にあることを説得、その方向で米国の合意を引き出された。まことに大変なる英断。これで将来の沖縄の日本復帰の道は残されたのでした。そして昭和48年のきょう5月15日に念願の沖縄の祖国復帰がなされたのでした。
しかし陛下の沖縄への御巡幸はかなわなかった。僕らも多くの友と必死にはがきを記載して関係者に送りましたが、誠に残念なことでありました。 その思いを継がれたのが上皇陛下上皇后陛下でいらっしゃいました。 6月23日の沖縄の日を忘れてはならないと国民におしめしくださったことにより多くの国民は改めて沖縄の歴史と悲惨さに心を寄せることになったのであります。 沖縄の救助に多くの特攻機が飛び立ち大和も向かうが 護衛機もなく4月7日ついに玉砕。わが岡崎矢矧神社を艦艇神社とする巡洋艦矢矧もこの大和と運命を共にした。 三ヶ根には唯一鳥居を持つ慰霊碑がありますが、沖縄戦で亡くなられた将兵の慰霊の碑であります。数年前までこの碑の前で生存者の皆様が慰霊祭をされて見えましたが今はご遺族もお見えにならないのか地元の奉仕の方により花を手向けて手を合わせさせていただいております
牛島満中将が沖縄の第32軍司令官に就任なされたのは昭和19年8月。すでに沖縄の空と海は米軍にとられ本土からの支援物資は届かない状態。守備塀7万7千人にたいして米軍は上陸部隊18万3千、18隻の戦艦、15隻の空母
航空機1700機など。武器弾薬などを見れば日本の数千倍の戦力を持っていたといわれます。牛島中将の戦死は6月23日。 矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らむ
沖縄で必死に米軍をとどめ、本土の民への攻撃を必死に遅らせてくださった将兵・県民の皆さんには感謝の言葉しかありません。 幼子だった私を暖かく育ててくださった祖父の兄弟のお嫁さんは次男をパイロットとして送りだしたのだと聞きます。我が家の上空を数回旋回していったと聞いていますがおそらく沖縄戦で殉職されたらしいと聞いているので私は三ヶ根に行くたびに手を合わせます。
つらい体験をなされた沖縄の皆さんが本土復帰をどれほど願われたか、愛すべき日本に復帰がなったとき、国旗をうちふるって祝われたと聞きます。 国旗は愛すべき日本の象徴だったのです。
しかし何たることか。今日国旗を掲げる国民がいかに少ないことか。日本人の誇りを語ることがタブー視されたり。陛下のお写真を燃やすなどの非礼を臆面もなくなして恥じぬ知事まで出る始末。余も末なのかと情けなく思わずにはいられません・
岡島茂雄さんの御著書「日本史を歩く」を読み深く思うことあり。以下転載しておきます。
マレーシア元上院議員のラジャー・ダト・ノンチックさんの詩です。彼は日本の大東亜省が推進した「南方特別留学生」に選ばれ 日本人よありがとう かつて 日本人は 清らかで美しかった
ルックイースト政策をとられたマハティ―ル首相はあれほど日本を敬愛くださったのに、今の日本には何も学ぶものがないとおっしゃった。情けないがこの詩の通りの日本人がなんと多いことか。無念なことです
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Last updated
2020.05.16 00:06:03
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