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プーチンの居直りたわごとに政府は厳重抗議を 産経記事引用 プーチン露大統領、歴史認識で欧州を批判 米誌に寄稿 2020.6.19 09:40 プーチン露大統領(ロイター) 【モスクワ=小野田雄一】米政治外交誌「ナショナル・インタレスト」(電子版)は18日、ロシアのプーチン大統領の論文「第二次世界大戦75年の本当の教訓」を掲載した。「大戦はナチス・ドイツと旧ソ連が引き起こした」との歴史認識を示した欧州議会を批判し、反論する内容。プーチン氏には、ソ連と後継国ロシアが国家の存立基盤としてきた「ファシズムからの解放者・戦勝国」との立場を守るとともに、領土問題を含む戦後秩序を正当化する意図があるとみられる。 第二次大戦は従来、1939年9月のナチスによるポーランド侵攻が直接的な契機とされ、ナチスと戦ったソ連は「欧州の解放者」と評価される傾向が強かった。しかし欧州議会は昨年9月、「39年8月に不可侵条約と欧州分割の密約を結んだナチスとソ連という2つの全体主義国家が大戦の道を開いた」とする決議を採択。ナチスだけでなくソ連の戦争犯罪も検証する必要性があるとも指摘した。 決議に対し、プーチン氏は昨年12月、「完全なたわごとだ」と反発。ロシアの立場を論文にまとめる計画を表明していた。 論文でプーチン氏は「第一次大戦後、欧州はドイツに莫大(ばくだい)な賠償金を背負わせナチスの台頭を招いた」と指摘。英仏を中心に設立された国際連盟はスペイン内戦や日本の中国進出を防げなかったとも述べた。さらに、英仏伊独による38年のミュンヘン会談で、各国がナチスに融和姿勢を取ったことが大戦の「引き金」になったとの認識を示した。 プーチン氏は「ソ連がドイツと不可侵条約を結んだのは欧州諸国で実質的に最後だった」と主張。同条約締結は一連の国際情勢の帰結にすぎず、「ソ連を非難するのはアンフェアだ」とした。欧州議会の決議は、ミュンヘン会談に一切触れていないとも批判した。 その上で41年に始まった独ソ戦に関し、「ソ連は多大な血を流し、ナチスの敗北に決定的な貢献を果たした」と評価。対日戦に関しても「完全に(連合国間の)ヤルタ合意に従ったものだった」としたほか、「連合国が日本の軍国主義を打倒した」とした。 プーチン氏は最後に、大戦後の世界秩序にも言及。国連安全保障理事会の常任理事国5カ国の努力により、第三次大戦が防がれてきたとの認識を示した。その上で、5カ国が持つ拒否権を廃止すれば国連は無力化すると警告した。 引用以上 日本は大東亜戦争の終結時に仲裁を要請していたのは中立条約を結んでいたソ連。ソ連はそれを受けて仲介をなすことを日本政府と確認していた。このことは決して忘れてはならない。 しかるにソ連は日本からの交渉進展の問い合わせには答えずに引き延ばしばかり。双方からの見返りの過多の如何を天秤にかけていたのだ。2重スパイのごとくに。 ついにヤルタの密約にくみし、対日戦争を決断。 いかに卑劣な行為をなしたか、これは語っておかねばならない。 その日時は1945年2月8日にアメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン。その後イギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定、ヤルタ会談である。スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して、満州国の権益(南満州鉄道や港湾)、樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求。、ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないため、これらの要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連対日参戦を促した。この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと。満州国の港湾と南満州鉄道における、ソ連の権益を確保することなどを条件提示。受け入れられてドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた。 以降は対日詐欺を続け、スターリンが、具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べた。 日ソ不可侵条約は一方ア破棄しても効力が生じるのは半年後。しかし米国が8月6日日本に原爆を落としたことを知るや、勝利を確信し、8月9日、対日参戦を表明して直ちに満州に侵入、参戦の翌日に、日本が「ポツダム宣言受諾」を連合国に通告したため、戦争末期(9月2日の日本の降伏文書調印まで)の極めて短期間の間に、北方領土を奪取したのだ。 日本が大戦に引き込まれたのは共産主義国家の暴挙阻止のため。これこそ、レッドファシズムこそがが世界人類を破滅に導く世界最大の危機であった。 植民地国家欧州のみならずソ連がいかに卑劣な行為をなしたか、これらは正しく語っておかねばならない。 さらに火事場どろぼうの略奪は続く。ポツダム宣言は海外にいる日本人は速やかに故国に返すことが条件であったにかかわらず、シベリア抑留をなすのだった。 帝政ロシア時代より、シベリアは流刑の地として使用されており、政治犯などがシベリアへと送られていた。ソ連成立以降の「シベリア送り」は、国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、建国当初から行われていた。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、イタリア、少数ながらスペイン、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも送り込まれていた。 ソ連のどこに義があるといえるのか。 正義感ぶるプーチンの言葉には正義や真実など何もない。
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Last updated
2020.06.19 14:00:29
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