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朝7時より雨の中資源ごみ回収立ち合い、同時に公民館周辺の草取り8時まで。家で育てた花をもって墓参りに母を連れていく。 次いでアパートのかたから頼まれていた垣根の剪定を行う。なんとハチが向かってきた。急いでスプレーを取りに帰り飛び交うハチは撃退。しかしハチの巣までは未発見でしたので明日また見つけ出すつもり。おそらくまだいる模様。 作業の最中に町内の総代さんから「上和田町の歴史」原稿の完成版をいただいたので事務所に帰り印刷をかける。 1000軒を超える町内の中で記念碑の内容や意義などを知ってみえる方はおそらく数人。 これでは町の文化や先人の労苦が伝わらない。 そこで私の書き溜めたブログ資料を基に「上和田町の歴史」としてまとめてくださったのだ。 記念碑の見学に見える方が最近多くなり、語られる方がいないのは町としてもおかしな話。私がたまたまいればお話もできるでしょうがそんな奇跡はあり得ない。よって「自由にお取りください」との文字をつけて碑の近くに用意しておけば町の大きな宣伝にもなる。 町の祭礼にのぼりでも立ててアピールしたり慰霊顕彰祭の実施が出来ればなおのこと後世にまで、町の成り立ちのルーツが誇りをもって伝わるというもの。 以前のブログにも上げたが、わが町は南朝側についた宇都宮奏藤公の築城から始まる。新田義貞公の下、南朝側の武将として活躍した方。のちに子孫は名字を大久保と改めた。大久保彦左衛門も小田原城主の大久保忠世もこの上和田城で生まれた方。 宇都宮公の先祖は藤原氏。遠祖は関白藤原道兼。大久保一族の発跡の地の大きな石碑が愛知県の名で立てられている。 新田義貞公の首塚も泰藤公がおつくりになったと記されている。また三河一向一揆で家康がこの城にて絶体絶命のピンチに会った際に守り抜いたのが大久保一族。家康公を守って果てた方がもう一つの碑の土屋長吉公であります。 こうした歴史の継承が、町を担っていくであろう子供たちのプライドとなっていくのだおもうのです。 とりあえず「上和田町の歴史」20部を作製。町の出版とするか社会教育委員会の発行か、はたまた町内有志の出版とするかは役員の皆さんに諮って決めることを提案させていただく。むろん有志での発行でも良く、その場合でも町内の様々な会に渡したり、記念碑を調査に見える方などに渡せるようにはする予定。
松井石根大将の慰霊祭につき、元県議と打ち合わせ。実施は昨年同様南京攻略の12月13日前後での開催を目指すことに。今年は多くの方のご参加で成し遂げたい。 89歳になられるI様に役員になっていただけないかと打診。父上が南京入場をなされた方で冤罪を晴らすようになくなる最期まで言われ続けられたとおっしゃる。当時の写真資料も多数お持ちでいらっしゃる。こうした歴史の真実を抱えて見える方がみえるのは本当に貴重な愛知の人材であります。毎年慰霊祭にご参加くださるかた。頭が下がります。
三ヶ根花壇に番号を付け、植える草花を持っている人に持ち寄っていただこうとの提案を受けたので花壇配置形状図を作成して友にファックスをする。こうすれば苗が少数であっても花壇ごとに管理が出来る。なんの種をまいたかも掌握できる。良き提案であると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.07.08 22:33:07
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