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『でもとにかく』
人は往々にして不合理で非論理的で自己中心的なものです。 でもとにかく彼らを愛しなさい。
たとえあなたが善いことをしても、人はあなたを利己的だとか、何か下心があるのだろうと非難することでしょう。 でもとにかく善いことをしなさい。
あなたが何かを成し遂げようとすると、その邪魔をする人が現れるでしょう。 でもとにかく成し遂げてしまいなさい。
あなたが誠実で正直であればあるほど、あなたの心は傷つきやすくなるでしょう。 でもとにかく誠実で正直であり続けなさい。
あなたが何年もかけて築き上げてきたものが、一夜にして壊されることもあるかもしれません。 でもとにかく築き上げなさい。
本当に助けが必要な人の中には、あなたの手助けに乱暴で応える人もいるでしょう。 でもとにかく彼らを助けなさい。
世のため人のためにあなたの最善を尽くしても、逆にひどい仕打ちを受けることもあるでしょう。 でもとにかく世のため人のためにあなたの最善を尽くしなさい。
カルカッタのシシュ・バヴァン(聖なる子供の家)の壁に記されているマザーテレサの言葉だといわれています。
今日も三ヶ根に。 朝いちばんに郵便局に不在者配達の資料をもらいに行き10時からおそらく三ヶ根の山中にて失った携帯をあきらめ新規に携帯購入手続きを行い11時半より孫の誕生日の祝いを両家のご両親で行い、頃合いを見て三ヶ根に走った。夕刻6時半ほどまで。
この夏少なくとも70日以上は三ヶ根に走っていることでしょう。
思えばもう四十年ほどになるでしょうか。。僕らは清掃用のユニフォームを作って皆で慰霊碑などの清掃作業をなしていた。名は「草莽塾」。昨今草莽の名が広く使われて始めてきたがそのずっと前の話です。「草莽恋闕歌唱祭」なども開催していた。 当時は三ヶ根の御祭りには鶴田浩二先生やアイジョージ氏など多くの著名人がお越しになってそれは盛大に行われていた。四月二十九日の慰霊祭は国歌斉唱がアイジョージ氏。友ら数人と写真を撮らせていただきましたがそれは気さくに「私でできることは何でもさせていただきます」とおっしゃり受けていただいた。 殉国七士墓地はもっと広めるべきだ。そう思って友らと月一度は豊橋陸軍墓地や豊橋公園神武天皇像清掃などの行事に加えて三ヶ根清掃を入れた。 しかし、以降、年とともにご遺族の参加がめっきり減り、山頂の旅館も閉鎖が続く。市町村合併がなり、この地は西尾市に併合される。比島観音さんの奉賛会もついに解散。 その中での七士廟整備・花畑公園計画。 殉国7士霊園花壇を作ることになったのはもう4年前でしたか。西尾市の土地ですので勝手に木々を切ったりすることはできない。しかしブッシュに覆われた周辺の地をもっと快適な場所にできないだろうか。 西尾市の土地の貸与を申し出ることにして、純粋に公園の整備や除草などのためになら貸し出しはできると許可をいただく。
以来多くの方が花壇作成にご努力くださることになる。許可いただいた場所は慰霊碑軍の西側の斜面下約350坪。
四月からの一年ごとに申請書を西尾市に提出することになる。 しかしメンバーは花壇作成のノウハウもなく、花も病気で枯れてしまったり風雨で倒れて腐ってしまったりと大変な思いをしながらの作業。
怠け者の私は皆さんの作業時間帯に合わせることがほとんどできなく。迷惑のかけ通し。しかし高杉晋作ではないがお群れても遅れてもなお君たちに誓いし言の葉我れ忘れめやと、予定日の昼一時ころには会合を中座して駆けつけ作業に。 皆さんの花の育成計画もよく知らずに勝手ながらも花壇の形に意味を持たせてオリンピックの実施に絡めて五輪を中核にした花壇をメインに置き通路を決定。皆さんにはデザインの相談すらしないで取り掛かった。まあ頑固な人間だから仕方ないとあきらめてもいただいた。 「とにかく」 「とにかく」 「とにかく」花壇は形ができた おしかりは十分いただき、またこれからもいただくでしょうが 「とにかく」気持ちと形だけは理解いただいたつもりになっている。
今日も草取りにいく。あとはうまく花が咲いてくれればと願いながら。
さて、八月十五日、僕らは半旗を掲げ、岡崎の市役所も警察署も半旗の掲揚をしてくださった。官公庁や企業、国民には政府から今年も弔旗の掲揚の要請があったはずとおもう。 花壇づくりの友からインドではこの日花火を盛大に打ち上げインド国旗だけでなく日章旗も出してくださるところが多いと聞く。そうインドは独立記念日をこの日に定めて日本へのおもいをあらわしてくださっているのだ。日本は身を殺してインドの独立に寄与してくれたとの意を表してのこと。そう、頭山満翁をはじめとする日本人の独立援助を知る人は知っているのでありましょう。
インドネシアも本来は八月十七日に独立宣言を出して独立を達成した。スカルノとハッタ氏はそのリーダーであった。
スハルト氏は、1988年8月17日の独立記念日に、インドネシア独立に尽力した金子智一・稲嶺一郎の2名の日本人に国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」を授与している ジョージ・S・カナヘレ氏は著書『日本軍政とインドネシア独立』の中で、「日本軍政は、インドネシア語の公用化を徹底させたが、このことを通し、インドネシアは国民的自覚の連帯意識を強化せしめることができた」とし、以下のように分析し 日本軍政は、オランダ時代には知らなかった広い地域の大衆をインドネシアという国家形態に組織した。…日本軍政は、ジャワ、バリ、スマトラに、現地人による常備軍(ペタ)を設けて訓練した。オランダ復帰に抵抗して闘ったこの革命軍将校と数万の兵士の組織と訓練、そして日本軍があたえた大量の兵器なしに、インドネシア革命はあり得なかった。— ジョージ・S・カナヘレ『日本軍政とインドネシア独立』
ペタはインドネシアの独立は自らの手で力で成し遂げるべきとの理念をもって日本人が鍛えぬいた軍隊。終戦後日本にもどらずオランダからの独立運動に残った皆さんは二千名を超えるとされ、皆英雄として国立の墓地に手厚く葬られている。 その後、オランダからの独立をなし、オランダの傀儡政府を解体してインドネシアとして統一したがその際の独立記念日は八月十五日になった。その経緯は良くは知りませんが、インドのような思いがあったのではと勝手に推測しているのですが。
八月十五日にはもう南北朝鮮の面倒を見ないで済むという決定の非であるから祝意を表すべく弔旗でなくとも祝意の国旗を日本でも出したらいいのではという人もいるが、でもやはり日本では弔旗にすべきで在りましょう。 。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.08.16 22:00:10
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