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戦後最大の皇室批判をなした政治家として名をのこすであろう大村秀章愛知県知事への批難は日を追うごとに高まっている。 彼は皇族の方々が来県くださるたびにその前に立ち恥ずかしげもなく手を振り県民に存在アピールをされている。ご自分がいかに高潔であるかを県民よ信じなさいとでも言いたげに皇族を先導して歩む。こうした光景を皇族奉迎に携わってきた私は何度も見てきた。 故事にトラの威を借るキツネというのがあるが、まさに「皇族の雅を借る藩屏の徒」とでもいおうか、かたはらいたく覚えてならなかった。そこまでされずともといつも思っていたが、昨年のトリエンナーレ事件を見たときにはもう敬意もすべて消え去った。国家を救われた終戦のご聖断をくだされた昭和天皇のお姿を貶めるたくらみに乗り愛知県民を反天皇支持者としてのアリバイ証明に使ったのである。 昨日の河村市長の話によれば、知事は「慰安婦像はまずい」とか、陛下への中傷映像は困るとかの意見を口にしていた時期があったという。「とんでもない展示」の認識がおありではあったのかもしれない。しかし前言を撤回して独断で展示再開を決めた。その心は裁判に訴えられるのを避けるため。自らが被告にされるのはたまらない。被告の場に立つのを避けたい欲求は、昭和天皇への侮辱映像の展示をなすことの愚かさより勝っていたのであろう。自らを被告の場に立たせる屈辱を味わるならば、皇室への攻撃を容認する方がよいとご判断されたのである。名分は、愛知県を被告の場に立たせたくないというものであろうがその実は自らの保身以外での何物でもなかろう。 サトラップ(王の目。王の耳)を各地に配置し、最大会派の自民県議団をも黙らせるほどの力を発揮しているのを見ると2元代表制などの言葉すらむなしく響く。 昨日は記者からの質問に対して「名誉棄損の事実があれば法的措置をとる」との強圧的な言辞を吐露。皇室に意見表明権が実質ないことを知りながら自らはかかる言辞での威圧をなされる。 ベートーベンがナポレオン賛歌の楽譜を破り捨てた気持ちがはっきり同感できるものになった気がする。本当にもったいない。 山鹿素行の言葉に「外その威儀正しければ内その徳正し」があるが、なぜに反日反皇室主義者の「裁判提訴」の言葉に屈してしまわれたのか。展示内容を正せと申し入れたのが事実ならばなぜに貫かれなかったか。威儀を崩されなかったならばこうしたリコール対象者としての不名誉は負わずに済んだのに。
リコール運動が動き出した以上、県民は次第に知事の昭和天皇侮蔑行為を芸術認可された愚かさを知るようになりましょう。自民県連もチェック機能をはたしていない現実を県民が知るところとなりましょう。致し方なき事。それにもましてこの皇室愚弄、英霊侮蔑を放置することの罪深さを思わざるを得ない。
こうなる前に陛下に県民に詫びることがなぜにできなかったのか。そうすればはじめてのリコール知事の名を冠されずに済んだものを。
落としどころは象徴侮辱罪の新設だと私は思うのだが。
中学三年生が九条を学んでいるという。学校で自衛隊の存在が合憲である理由をどう習ってきたかを問う。 国際法の自衛権保持が憲法の上位にあるとの解釈。なるほど。
私は九条第二項の「前項の目的を達するため」の挿入句がかかる文面を、その後の 「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」の文面と「国の交戦権はこれを認めない」の両部分にかかると解釈できぬか聞いてきてよと頼んだ。
前項とは「国際紛争を解決する手段としての戦争」と「武力による威嚇及び武力の行使」放棄の条項で、むろん防衛戦争のための武力蜂起を禁じるものではない。 よってもし国際紛争を解決のための戦争に出ることがたとえあったとしてもその時には交戦権として国際社会に手認められている捕虜になる権利や待遇の安定確保の権能は有さない。同様にb峰遺影戦争の目的のためには「交戦権」を有すると解釈できるのではと。
改憲実現まではこれで当面行けるのでは。さてどんな答えが返ってくるであろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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