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1月もいつの間にか始まってしまった。数日前まではリコール一辺倒。年末に向けて12月25日の大正天皇祭資料作りと祭礼準備。その後は同志の就職とリコール処理・反省会・事務所整理、さらに三ヶ根の慰霊と花壇整備。2月の建国祭の各地との打ち合わせなどに動き、新年の国旗掲揚500ほんとその降納及び国旗整理。新年とともに三ヶ根花壇作成に奔走しながら三ヶ根配布資料作成。リコール名簿選管提出が昨日の4日。 やっとリコール関係は終わったのでやっと昭和天皇祭へ向けて心を動かす。無論明後日の多摩御陵参拝の呼びかけである。日帰りバス旅行ですがまあ行ける方だけとなりましょう。集合は豊田市。8時出発。 同時に1月11日12時開催の忠臣土屋長吉公の慰霊祭準備。これも私が開始した慰霊祭であり継続の責務がある。神式で行いますので神官役の友にも頼んではありますが町内への呼びかけはいまだ。むろんこの日は成人式の祝日ですので4時間半はかけて市内の国旗掲揚を済ませてからの実施。よく週も町内の大きな行事が2日連続でありその準備としてポスター張りや各戸を回っての集金業務もある。翌週も大きな教育行事があり、運営者20名ほどを頼まねばならぬ。とかく毎年ながら一月は必死に走りこまねばならない月である。
今日も朝7時から資源ごみの回収立ち合いが8時半まで、ついでもえるゴミの集積チェックと神社掃除をなす。知人宅のゴミ捨て応援をなし、すぐさま軽トラックいっぱいの土や草花植木鉢などを重量いっぱい詰め込み三ヶ根に運び植え切る。これで4時を過ぎる。 母を乗せて家の花壇用の土をもらい受けに行ったりしていると。もう仕事の開始時間となる。
終了は夜11時。さてやっとこれから日記ブログ書きと慰霊祭祭文作成。明日は三分別の資源ごみ回収日。 さて、土屋長吉公慰霊祭準備をと思い、ネットをみてびっくり。私の取り組みが広がりを見せているではないか。 土屋重治、徳川家康の危機に - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ の文がどなたかの手により記載があるではないか。 以下引用させていただく。 永禄7年(1564)正月11日、三河一向一揆、上和田の戦いでのことである。 一揆軍の攻勢に味方が危機と聞いた徳川家康は、単騎でその救援に向かった。 しかし一揆軍の優勢は止まらず、ついに家康自身も危機的な状況になった。 この時家康には二発も鉄砲の弾が命中したが、鎧が頑丈であったため助かったという。 さて、その時 一揆軍の中に、土屋長吉重治という者がいた。 彼は家康の姿を見ると激しく狼狽し、叫んだ 「私は宗門に味方している!しかし、今まさに主君が危機にあるというのに、 それを助けないというのは不本意というものではないか! もしこの事で地獄に落ちる事になろうと、私はそれを厭わない!」 土屋は、味方である一揆軍に攻撃を仕掛けた。 突然の裏切りに一揆軍は動揺した。家康はこの機を逃さず巧みに指揮をし、 ついに危機から脱出する。 土屋は味方への突撃の後、討ち死にした。 戦後、家康は石川守成に土屋の死骸を探させた。 そして運ばれて来た遺体の手を取り、激しく嘆き悲しんだ。 家康は上和田の地に土屋の墓を作り、彼を篤く弔ったという。 一揆に参加し敵対していながら、自分の命と引き替えるかのように主君家康の危機を救った、土屋重治についての逸話である (徳川実紀) /// 徳川家康が、天下をとれたのは、こういう名もなき武士への恩を忘れず、手厚く葬ったことにある。 後の世の人が、慰霊祭を執り行うのは、郷土の誇りでもある。 残念なことだが、戦後生まれ世代で、このような自己犠牲できる方に出会った試しがない。団塊の世代は旗色が悪くなるとすぐに逃げ出す腰抜け揃い、私の世代は、要領さえ良ければすべて良しとする世代、戦争に負けるというのは、かくも世相を変えてしまうものなのか? ということである。
引用以上
うれしいですね。10年前にはおそらく誰も関心をもたれなかった土屋長吉公。こうしてご紹介いただけているとは。しっかりやらなければとしみじみおおもう。記載くださった方にこころから感謝いたします。
さ手岡崎市民の方は良くご存じでしょうが岡崎ご出身の土屋正春大将は乃木希典大将率いる第3軍隷下の第11師団長。旅順攻略戦をともにたたかわれた岡崎市民の英雄であります。 退役後は郷里岡崎に帰り、三河郷友会会長を務められたかたです。
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