あさ6時半に出発して豊田市にはしる。8時にバスが出発。総員27名。昭和聖徳記念財団の皆さん及び関係者がご参加くださっている。
行き先は八王子市の武蔵野御陵・多摩御陵。
毎年、昭和天皇祭の式典が昼になされるのですが、今年はコロナのため式典が中止となり東京に直接ごさんかkうだ去った皆さんを合わせて30名ほどで参拝ができた。
バスの道中様々に自己紹介や活動報告が成され、多彩なご活躍をなされて見える方々に尊敬のおもいを持つ。特に昭和天皇への尊崇の念が皆さん非常に高く、今回のリコール活動の関心は非常に高い。
昭和天皇の御影を燃やすなどまさに狂気の沙汰。リコール運動の最中に抗議に見えた青年と話された体験談をかたってくださった先生の話は実に素晴らしかった。
青年に昭和天皇がマッカーサーにおあいになった際のはなしをすると、青年はびっくりしたという。
そんな話は聞いたことがない
青年は神妙な顔つきになった。それほど高貴な方だとは。
青年は芸術に政治家が文句をつけるのはおかしいと浅薄な認識で詰め寄ってきたが、先生は昭和天皇がいかに戦争を回避しようとなされ、しかも敗戦の一切の責任は我にありとおっしゃられて国民をお守りになられた事実をかたったのです。
この事実を彼らにつたえてこなかったのではなかったか。先生の御指摘こそ重大。大人の失敗は陛下の存在を次の世代を担う青年に教えてこなかったこと。
さらに多くの方が昭和天皇につき語られた。
雨の中、テントを撤去され傘もさされず、2時間余も直立不動で微動たりとも足を動かされることなく国民とともにあられたことなど。
私は上皇陛下が大府におみえになった際、国旗でお迎えして、お車がみえなくなったときに奉迎の皆さんと国歌斉唱を2度陛下に聞こえるように歌った時の体験を語った。事後警備の警官から「国歌斉唱は1度だけに」といわれ、理由を聞き驚き申しわけなくみずからを恥じたこと。陛下は国歌が聞こえる間中、直立されて歩をすすめられなかったときく。歌声が聴聞に達したことの喜びどころか秒単位ですすむ陛下の御公務を止めてしまったことへの慚愧の念に堪え切れなかった体験を述べた。
他にも奉迎の話や、三島先生の天皇意識なども。
海外のアメリカンスクールで学ばれた方が、原爆投下の是非の授業をディベートで学ばれた方が、圧倒的に投下を良しとするこどもたちの結論にたいして、「昭和天皇は世紀最大の聖者」だとする意見とエビデンスを基にした授業を受けたご体験をされたこと。日本へ帰って国内の教育のおかしさに驚いた体験が今日のご自分の活動につながっていることなどを驚きをもって伺う。
リコール署名中は必死で署名集めに入っていたが陛下のお姿を語るゆとりなく知事批判の主張ばかりに終始、つまり御聖徳を語るゆとりがなかったことを反省させられた。思い返せばせっかくの県民への教育チャンスが生かせずに終わってしまったことを残念に思った。
富士山上空に冠状の雲がみえる。これにも驚く。
大正天皇御陵・貞明皇后御陵・昭和天皇御陵・香淳皇后御陵参拝を済ませ記念写真を撮り帰路に就く。大正天皇御陵は「多摩御陵」貞明皇后御陵は「多摩東陵」昭和天皇御陵は「武藏野陵」香淳皇后御陵は「武藏野東陵」と申し上げることを意識する。
昭和天皇の神社がいまだたっていないことが知事による不敬表現をうんだのではと思われてならない。
神社の建立があれば、国民の尊崇を受けていることを知事も意識せざるを得ないでありましょうし、かかる行為をさすがになさなかったのでは。
こう思いつつ、リコールの不成立並びに不正署名紛れ込み事件を御陵を前に心からお詫び申し上げた。
国民教育を必死になって起こさねば戦後の呪縛から国民は解放されないのだ。
皆さん全員に布製の小旗をプレゼントした。次回国旗掲揚は11日成人の日とアピールしておいた。
ちなみにこの11日は 地元上和田町にて12時より家康公をお守りした土屋長吉公の慰霊祭も開催します。
帰りには永遠のゼロ栄華を皆さんで鑑賞しつつ帰る。車中にて建国祭の準備状況を報告。急ぎ決定しなくては。
必死に帰り着いて仕事を7時半より行う。何とか間に合った。しかし日々ぎりぎり時間での生活。多くの方にご迷惑をかけているなあとまた今日も反省。
阿修羅の如き軍神の