草莽の記    杉田謙一

2021/01/08(金)23:16

刈谷の松本奎堂先生ご生誕の日

明日は郷土の偉人刈谷市の松本奎堂先生のご生誕の日です。wikiにより概略を転載する。 松本 奎堂(まつもと けいどう、天保2年12月7日(1832年1月9日) - 文久3年9月25日(1863年11月6日))は幕末の志士。通称謙三郎、名は孟成、衡。字は士権。奎堂は号。別の号に嬬川、洞仏子がある。 三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問所で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち脱藩して私塾を開き尊攘派志士と交わった。孝明天皇の大和行幸の先駆けたるべき天誅組を結成して大和国で挙兵。吉村寅太郎(土佐脱藩)、藤本鉄石(岡山脱藩)とともに三総裁の一人となった。だが、八月十八日の政変で大和行幸は中止となり、孤立した天誅組は幕府軍の攻撃を受けて敗退し、松本も戦死した。 引用以上 文久3年(1863年)将軍家茂が上洛。天皇の攘夷祈願の賀茂行幸に供奉したことにより世間は我が国体は天皇が中心で将軍は政治の実行者として任命をうけたにすぎないことを改めて知ることになった。 大和神武天皇陵・春日社参拝の行幸を機に王政復古に突き進もうとする変革維新勢力は約40名の志士を結集して天誅組を組織、中心に明治天皇の叔父、中山忠光公を主将とした。 行幸先の大和国((奈良県)の五条代官所を抑えて、この幕府領を天皇直轄領と変えて、行幸を迎え、倒幕の先駆けを成す手はずであったのだ。 その天誅組には刈谷藩から松本奎堂・宍戸弥四郎・伊藤三弥(さんや)の三名が脱藩し、参加したのです。 松本奎堂は18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明されたが、平然としていたというほど豪胆な人物。 1852年に刈谷藩よりえらばれて昌平坂学問所に学び舎長になる。江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、徳川譜代にかかわらず時代の閉塞感に苦悩、革新の志を持ち脱藩して在野の志士と交流。天誅組結成時には土佐の吉村虎太郎・岡山の藤本鉄石と共に三総裁の一人に就任した。 しかし8月18日の政変により公武一体派の公卿により尊攘派公卿や長州藩が都落ちして行幸は中止となり、天誅組は一挙に賊軍・偽官軍とされてしまった。大和の十津川の郷士らを率いて蹶起するも幕府動員の諸兵により敗走。松本は奈良東吉野村山中にて紀州藩兵の銃弾に倒された。松本奎堂の死(自決説も)は文久3年9月25日(1863年11月6日) 宍戸も彦根藩兵と戦い戦死する。敗れはしたものの、最盛期には1000名の兵を擁して戦い、尊王攘夷の武装決起の先駆けとして大いなる評価を受けることになる。 後にその蹶起は明治政府により義挙とされ、松本・宍戸両先生は従4位を追贈された。 伊藤は明治維新後に岩倉具視の推挙により司法省・内務省に出仕、三重県礼や第一回の衆議院議員となる。鉱山経営や東京株式取引所・歌舞伎座の設立にも携わる。遺産は娘坂木那津子によって亀城小学校奨学資金に寄贈されている。  決起に生き延びた浪士の一部は支援者の岡崎の庄屋、深見篤慶の屋敷にかくまわれ学問をしながらいたと我が町内の古老波多野さんより聞く。波多野氏は曾祖父の方が深見家にて遊んでもらったと良く聞かされていたそうな。 ちなみに深見篤慶氏は愛知豊明市の外山家より乞われて養子に入った人物で尊王の志の篤き人物。財を成して有栖川宮家に相当の資金援助をしてこられた人物でもあります。 毎年、町内をあげて4月に慰霊祭を成し、ここ数年は本家の外山家より祭礼に出向いていただいてもいる。 お呼びしたご縁で私も祭礼に参加させていただいています。残念ながら昨年はコロナのため地元の要職者だけで祭礼をなされたので私は参加できずに終わる。外山氏は私が最も尊敬できる愛国者。今年の2月11日の建国祭もコロナ禍で祭典開催が厳しくなっていましたが地元の役職者や有志だけででも建国祭を行ってくださるとの熱いメッセージをいただいている。講師は尖閣防衛の先駆者一色正春先生の予定。2月11日午前10時からの予定。残念ながら今年は一般参加は無しでとのことですが。 有栖川宮殿下はそのご縁で大正天皇の悠紀斎田の万歳米奉納時にも岡崎にお越しいただいたとの記録もあり、また、岡崎奥殿藩の藩主大給亘氏が今の赤十字を立ち上げる際にもご賛同いただいたと記録にある。   刈谷市では松本圭堂先生を地元の英雄としてその人生を漫画で表記。DVDを作成し学校教育で取り扱って見える。  とある政党は先生等をテロリストだとして英雄視には反対の立場をとるが、戦後の価値観で維新時を語るなど愚の骨頂ではないか。 時代の変革期に何もせず傍観者たれと語る価値観では日本の将来はない。祖国を支えて尊き命を燃やされた方々を尊敬できぬ者は「馬鹿な日本人の墓」なる展示を容認する価値感を持つものと同列だといわざるをえまい。 今朝は燃えるゴミ収集と神社清掃。あとは書類整理に追われていた。 明日夕刻には成人式を祝って国旗掲揚500本。 11日は町内に残る石碑の主人公土屋長吉公の慰霊祭を12時より。一時からはリコール運動を終え今後の活動を真摯に語る出発の会議を開催。この日をもって岡崎事務室の終了となります。

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