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23日に関口長太郎顕彰会主催で講演会を開催します。慰霊顕彰祭礼は11月14日に西尾市で行いますが今回はその前段として行います。
私が関口先生を知ったのは10数年前。 そのいきさつをこのブログにても記載した覚えがありますが、採録しておきます。
台湾「芝山巌教育」の先駆者 関口長太郎先生のこと
台湾教育の父、六氏先生のお一人は愛知の人と聞いており、いつか墓参りをと思っていた。たまたま西尾図書館で先生の名を見つけ、歓喜に震え必死に探してみた。 関口長太郎先生。安政六年、(1859)から明治二十九年(1896)の人。父は5石3人扶持、吟味役賄方台所掛の宇左衛門。西尾藩の武士の子として生まれたので、勉学の機会には恵まれ満七歳のときに藩校「修道館」に入学し、秋山恬堂の指導を受けた。ここで六年間学び、名古屋の佐藤牧山塾に入り、漢学を磨く傍ら英語数学を学ぶ。 明治九年(1873)には新設間もない愛知県尋常師範学校へ入学。ここで校長、伊沢修二の影響を受けたのである。 生涯を教育に尽くす決意をし、中島郡の小学校を皮切りに赴任。満二十九歳で錦城学校校長を勤めたとある。 明治二十八年五月、日清戦争の結果、台湾は日本の領土に組み込まれた。教育を通じて日本化を図る必要がある。関口先生は師範学校校長、伊沢修二に勧められ、日本各地より選ばれた六名とともに台湾教育部学務委員として台北入りをした。台北北部の芝山巌恵済宮という道観を借りて同年七月に芝山巌学堂という小学校を設立した。 最初は六人の生徒を集め、伊沢と七人の先生計八人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年九月二十日には生徒数が二十一人になり甲、乙、丙の三組に分けて授業を行っていた。 現地人教育のほかに台湾語教育も行い、親日派を育成し、台湾の同化を図ることを諸先生は責務とされた。 しかし、これらの教化政策に反発する島民はゲリラ活動を続け大小の事件を起こした。 暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発するようになった。周辺住人は教師たちに避難を勧めたが彼らは教育に命を懸けていることを示して芝山巌を去ろうとはしなかった。 その頃、能久親王が出征中の台南で薨去され、それに伴い伊沢氏と一人の教師(山田耕造氏)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。その伊沢氏の帰国中に事件は起こったのである。 翌年一月一日のこと。士林警察署から襲撃は開始された。六人の教師と用務員が元旦の拝賀式へ出席するため芝山巌を下山しようとしたとき約百人の抗日ゲリラ(匪賊)に遭遇したのだ。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れてもらえず、用務員の小林を含む七人全員が惨殺された。 「六氏先生」と呼ばれる六人の教師は以下のとおり。 山口県、楫取道明 (38歳吉田松陰の甥) 愛知県、関口長太郎 (37歳西尾小初代校長) 群馬県、中島長吉 (25歳) 東京都、桂金太郎 (27歳、東京府士族) 山口県、井原順之助 (23歳) 熊本県、平井数馬 (17歳) 先生方の台湾教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、この後、人々の間で語り継がれるようになった。この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.7%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年頃には七十%に、また終戦時には識字率が九十二・五%にも上っていたという。まさに奇跡的である。
「西尾町史」を手がかりについに西尾城の歴史公園内にて関口長太郎先生の碑を見つけた。資料によれば今年がご生誕百五十一年ではないか。地元で何かなさなくては。しかし地域のどなたに聞いても先生の名前すら知らぬという。石碑の場所すら図書館職員のだれも知らなかったのだ。粘って心当たりを聞き、ついに見つけだしたのだ。 松平乗承てん額、井沢修二撰文、中川衡憲書。高さ5尺、幅3尺5寸。碑文文面はコケか黴かで読めはしない。 早速水洗いをしてみた。すばらしい、石からしっかりした文面が浮き上がってきた。感動である。なおここは、西尾小学校の隣地。創立百数十年。もしかしてこの小学校とのかかわりがあるのでは。訪問して調べてもらえば初代校長の名と同じという。やった。ここにて教育をされていたのか。 教頭にお伺いしてみると、先生を子供たちに教えていないどころか教師も関口先生をほとんど知らぬとの返事。初代校長は台湾の方だそうだなどと誤った理解すらされていたのだ。これではだめだ。早速、地域教育のためにも、生徒に勇気を与えるためにも、ぜひ日本を代表する教育者関口先生のご業績を語っていただきたいとお願いした。 さらに新聞記事縮刷版で探しぬいた。どこかにあるだろう。読みはあたった。二十年前の地元三河新報社縮刷版に関口先生の記事が。 西尾の寺をめぐり、先生の墓を探して聞いてもわからなかったのであきらめていたが、なんと記事に寺名が記載してあったのだ。 喜び勇んで訪れ参拝を申し出ると、残念ながら無縁仏となられていたのである。娘さんも後妻にいかれ、すでにお亡くなりになっていた。ああその末路や哀れ。残念でならない。(中略)
無念なり 関口長太郎先生の墓参り 2010.5.17 やっと関口長太郎先生のお墓にまで到達できた。建立は明治三十年と刻まれてあった。もう建立者の文字も読めない。残念なことであるがもはや係累もなくお守りする人もいなくなっていた。 とつがれたお孫さんの澄子さんが昨年お亡くなりになった。その際、永代供養をお願いしていかれたそうであるが、このまま時間が過ぎ去れば訪れる人もなくなり、後の世には無縁仏となってしまうのだろうか。あまりにむなしきことであります。 西尾城の石碑の周りをお掃除してきた。文面も緑色のカビなのかコケなのかが覆い、それを水拭きできれいに掃除した。何とか文字は読めるようになった。拓本も取れるでしょう。 関口先生のことをしたためられた、とある先生にお会いしてお話を伺った。八十を過ぎてもお元気である。先生の少年時代のことをうかがうと戦争の認識が新たになり深まりもした。元校長でいらっしゃり深い洞察力をお持ちである。話題が日教組のことに及ぶと面白い見解を示された。 前日まで必ず勝利するといい続けた教師。みな打ちてしやまんの愛国教師であった。しかし敗戦。白木の中に石ころひとつで息子の死を納得せよとはあまりにひどいじゃないかとご父兄。 教師は反省した振りをするか、やめて百姓になったりされた。が、逃げ込む世界のない教師はしかし、家族がおり、食っていかねばならない。その避難所が日教組だったといわれるのだ。価値観すべてが崩れ、口にはださねど目で非難をされるご婦人たち。先生が息子を奪ったではないか。 教師はうなだれ、罪悪感に駆られ、その傷を治さねば、なめあわねば、教壇にはたてっこなかったのだと。本心から、いや形だけでも新しい考えについていくしかない。占領政策に対峙などできっこない。こうして精神的なバランスを何とか取り戻す防波堤が日教組であったといわれた。 こうした時、いつか見ておれと臥薪嘗胆するのが日本人の価値観。しかしそれを見越した占領軍は忠臣蔵を禁じ、古文を読ませず、復讐ものはすべて禁じた。日本の贖罪をのみ決意させた。これが占領統治。 単なる敗戦ならいつしかその傷が癒え、復活の道を日本人はたどったであろう。しかし巧妙な統治により、もう価値観すべてがばらばらになり、同じ流れに戻ることはなかった。こうしみじみとおっしゃる。 今は地元で戦地よりお帰りになったさまざまな方の聞き取り調査をして見えるとのこと。兵隊に行くときは歓呼の声に送られ、帰るときには非難と罵声の中。夜中にこっそり帰ってくる人。その悲しさと絶望の日々。人に言えないさまざまを記録していらっしゃると聞いた。 まことにこころ深き方であります。この先生こそ真の愛国者でしょう。三ヶ根の慰霊をなしていることを申し上げると喜んでいただけた。再会を期してお別れしてきた。
関口長太郎先生ご生誕150年を祝い慰霊顕彰の記念行事開催の陳情書 平成22年5月21日 西尾市議会 議長 杉崎眞一郎 様 (陳情の要旨) 西尾小初代校長関口長太郎先生の台湾芝山巌教育のご業績を将来にわたって称え、伝えるために、市および教育委員会としてご業績顕彰の取り組みをされることを陳情いたします。
(陳情の理由) 文部省学務部長心得であった伊沢修二(元愛知師範学長)は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先すべきと具申し、七人の志ある人材を連れて台湾にわたった。楫取(かとり)道明(吉田松蔭の甥)、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬各氏であります。先生達は、台北市内、士林の芝山巌に学校を開設し教育をはじめた。この六名が非命に倒れられたのです。明治29年元旦のこと。 このような六先生の教育に対する情熱、精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は「芝山巌精神」と称され、台湾の人々の間に語り継がれるようになっている。 残念ながら郷土西尾市ではその先生のご業績がほとんど語られていません。 昭和五年には台湾に芝山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が、昭和八年までに三百三十人祀られた。そのうち、台湾人教育者は二十四人を数えた。 また、「六氏先生の歌」がつくられ、時の首相、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」も建てられるなど、六氏先生の精神は台湾の学校教育の原点となっていったのである。 ところが、戦後、台湾に乗り込んできた国民党は、神社、石碑、日本人の墓を次々と破壊、この碑も倒され、そのまま野ざらしにされた。 しかし、李登輝政権の誕生、陳水扁台北市長の誕生と、一連の台湾民主化の動きが進む中で、六氏先生の精神を復権する動きも高まり、芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成七年には、芝山巌学堂の 後身である士林国民小学校で、日本からも多くの卒業生、遺族、教育関係者を迎え、開校百年記念祝賀式典が盛大に開かれた。 また同年一月一日には、同小学校卒業生有志によって、「六氏先生の墓」が新たに建て直され、その後さらに「学務官僚遭難之碑」も再び建て直された。墓標の右側に「一八九六年卒」と没年を、左側には建立者の名前として「一九九五年一月一日壱百周年記念士林国小校友会重修」と記されている。 本年は先生のご生誕151年の記念すべき年であります。ぜひこの年を機に西尾市民の誇りとしての先生の顕彰をおこなっていただきたい。 陳情書以上
草莽の記 ブログ引用以上
あれから10数年。様々の方にご指導をいただき、友を連れて芝山巌にもいき広く先生の偉業を知っていただくように努力してきました。
熊本の平井先生の墓も詣で山口の楫取先生井原先生の墓碑にも参拝していよいよ教師たるものの在り方を感じてまいりました。西尾小学校では小6の生徒さんが学芸会で演じてくださったり、靖国神社で合同慰霊祭がなされたりと、多くの方が知ってくださるようになったのです。
台湾の方が先の大戦で志願兵として立ってくださった方は昭和13年は1020人(倍率412倍14年は1008名(596倍915年2497名(304倍)と。驚くべき倍率です。 これほどの皆さんが日本人と共にアジアのために戦ってくださったのです。 しかし日本の敗戦後はご本人やご遺族の台湾の皆さんに国籍がかわったので年金などほとんどのケアーはなされていない。本当に心苦しいことです。感謝するしかありませんが何とか日本国家として補償なりができないのだろうかと思わずにはいられません。 まずは台湾の現実を認識しなくては。 ぜひ講演会にご参加くださればと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
このお話のなかにあった佐藤牧山の碑が八事興正寺にあります。
一度さがしに行ったのですが、ひとを待たせていて焦っていたので発見することができませんでした。中京大学裏のほうまで行ったのですが。 興正寺の職員のかたにきいてもご存じありませんでした。 碑文を読むのに、望遠鏡を持っていかなければだめだと思いました。 のちに探し当てて碑の解読をされたグループがあります。 ://jk2unj.icurus.jp/satoubokuzan.htm 楚材晋用とは、春秋左伝のなかにある話で朱子がらみの言葉でもありますが、 佐藤牧山の諱と字にとられています。 佐藤牧山の師の鷲津毅堂は鷲津なつえ(童謡歌手の小鳩くるみ)の祖父の一族です。鷲津なつえはマザーグースの歌の研究者として有名です。 (2021.09.15 13:30:23)
ありがとうございます。士族の方々の学問は人物育成に大きく貢献するものだったと確信します、
佐藤牧山先生の碑は参拝致しておりませんが近いうちに行ってまいります。ブログの細井平洲先生は会館にも平洲小学校にもいっています。先生方が素晴らしい。子供らにトルコのエルトゥールル号の話を伝えてとることの交流をされている様子が冊子にしてあったのです。おそらく中学教科書に取り上げられる前のことだったように思い出します。 人材育成こそ国を強くする元であります。 (2021.09.15 22:55:02)
seimei杉田さんへ
たいへんなご多忙のなか、ご返信いただきありがとうございます。 本日の、教え子さんの名大院合格のご報告、嬉しく拝見しました。 教育者冥利につきますね。本当に師弟ともにご立派です。 平洲記念館のもとの館長Tさんは、わたしと同じ漢文講座の仲間でした。 よく存じあげております。 その師が亡くなられてからずっとお会いしておりませんが。 わたしが平洲記念館に行ったときは、Tさんが草鞋の作り方を教えているポスターが貼ってあったのを覚えています。 平洲小学校は、日本でただひとつ人名を冠した小学校だときいていますが、実はもうひとつあるらしい。 いつも日本のための無私のご活動、ありがとうございます。 感謝しております。 (2021.09.16 16:37:30)
拈華微笑さんへ
教育を大切に思う東海市の姿勢には感銘をおぼえました。個人の名を関した公立の記念館も少ないですね。西尾の尾崎士郎記念館もその一つ。 平洲小学校の卒業生は少なくとも平洲先生を手本にしていこうとされることと思います、人材として育っていただきたいものです。 わが町上和田町の歴史を記載した冊子を作り公民館の外に自由に持ち出せるように雨の入らぬボックスを作りおいているのですが今日も中学生が来て持って行ってくれました。この地で家康を守って亡くなった土屋長吉公について記載してあります。「レポートを書いて家康コンクールに応募してみたら」とアドバイスをしてみました、 町内の子らにこうして先人の偉業を伝えていくのも大切なことと思います。 二宮尊徳公の石像も岡崎の石工の方が全国へ広めたのですが尊徳公にお世話になった小田原城主は大久保忠世。代々大久保氏が城主となっていかれます。その忠世公の生地は我が家から100メートルほど離れた地と伝わります。三河物語作者の大久保彦左衛門の兄。大久保一族は我が家の都内にあった城、今の公民館を中核とした近隣に住居を構えていたようです。そのご縁もあり、二宮尊徳公の精神を伝える責務がわが町にもあると皆にかたっています。 小学校以外にも金次郎像が増えてきています。私の知るだけで3軒、 教育は国の柱です、 (2021.09.20 23:49:59)
seimei杉田さんへ
志賀重昂のこともですが、 郷里の偉人が長く名を遺すことができるかどうかは、 その郷里の人たちの愛情と尊敬の強さの度合いによると思います。 杉田さんのようなかたの存在があって、三河の偉人のかたがたは幸せだと思います。 ときには思いきって少しは休息もされますよう、 杉田さんのご活動に理解のあるご家族のかたもほんとうにご立派ですね。 (2021.09.24 23:28:41) |