3540479 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

草莽の記    杉田謙一

PR

Profile


seimei杉田

Comments

杉田謙一@ Re[1]:防衛意識の激変に思う(05/23) 拈華微笑さんへ コメントありがとうござい…
拈華微笑@ Re:防衛意識の激変に思う(05/23) >企業の倫理がぎりぎりで保たれたようだ…
拈華微笑@ Re:防衛意識の激変に思う(05/23) >彼は先に手を出すことは許されないと反…
中川美穂@ Re:はず夢ウォーク 第65回 里山と展望の三ヶ根コース(05/22) 西尾市の取り組み、素晴らしいですね。知…

Calendar

Favorite Blog

日本大好き、好きで… 茶畑 元35さん
だって好きなんです… nyago1945さん
余多歩き くれどさん
北国からのこだま 山男7388さん
文春新書『英語学習… Izumi Yukioさん

Freepage List

2021.12.23
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

明日123日は上皇陛下のお誕生日であります、心よりお祝い申し上げます、

同時に東条英機総理はじめ7名のいわゆるA級戦犯の方々が処刑された悲しみの日です、

7名の方は東条英機・松井石根・土肥原賢二・広田弘毅・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤章の各将

私はその頭文字を連ねて「とまどひ 生きむ」と覚えてくださいと案内しています。

A級とは平和に対する罪とされる。GHQ法務局長カーペンター大佐は、東条総理のような政治指導者と概括しています、共同謀議して開戦を仕組んだ人物と説明していますが、それでさえ事後法、戦闘中には犯罪でもなんでもなかった行為。

 もそも松井石根大将は国際法ない罪を新たにつくりあげた「平和に対する罪」の概念にも当てはまらない方でした。A級で無罪ですので殺害、虐待、奴隷行為をなしただのとする冤罪でB級有罪とされ南京事件の責任を無理やりとらされたのです。

松井石根大将は愛知名古屋のご出身。県内にいくつも慰霊碑に揮毫されている。中国と中国人を大切にされた武人で大東亜戦終結後、熱海にて興亜観音を建立され両国の兵士を祭られていた。

その松井大将が、南京攻略の恨みにより東京裁判で処刑になられた。

まさに冤罪。

「興亜観音を守る会」会報(『興亜観音第15号』2002418日号)に田中正明先生が書いたところによれば、一九六六年九月に、田中氏ら5人が岸信介氏の名代として台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったという体験談が記されていると、ウィキにあります、

南京市民が入城当時二十万。そのうち三十万が虐殺されたなどありえないのです。

反日扇動家ならまだしも、学問の道を目指す人は特に厳格に資料に当たってもらいたいもの。しっかり学習する姿勢を築いてもらいたいものです。

 

 南京事件の発端は第二次上海事件。昭和十二年(一九三七年)七月七日には盧溝橋事件が起こり、これが当時北支といわれた中国北部に拡大し、通州事件での日本人大虐殺がおきる、さらに上海での戦闘に発展。華中を根拠地にする蒋介石は、待ってましたとばかりに北京ではなく上海に派兵。勝てるとおもったのであろう。

この地に中国はドイツ人の軍事顧問団をいれトーチカ陣地を築いていた。ここ上海には日本は海軍の陸戦隊が数千程度しかいない。中国兵ははじめ二十万後八十万。そして八月十三日日本の陸戦隊の本部に攻撃がかけられたのた。

わが国は在留邦人を保護するため応急動員をかけ第十一師団と第三師団の二個師団を八月末から上海に送り込んだ。

しかし上海の防備は堅固にして被害続出。第九第百一第十三師団の増派、十一月になって十六師団を投入。背後を突き、さらに日本から新たに杭州湾に三個師団を投入。敵の退路を断った。

結果中国軍は総崩れとなり、首都ナンキンに向けて退却を始めた。

蒋介石軍は南京包囲を恐れ南京放棄論と抗戦論が戦わされたが、唐生智の抗戦論を採用。彼を司令長官として残し、蒋介石は十二月七日に南京脱出。100万都市南京はすでに多くの市民も脱出し終え、20万の住む都市となっていた。

 

南京は攻防戦の目標地となった。

逃げられない人たちは城内に残る。難民も流れ込んでくる。

外国宣教師たちの手により、安全区が設定された。南京市長馬超瞬は残留市民二十万人に対し国際安全区に移住すベしと命じた。

 一九〇七年ハーグ陸戦法規第二十五条は、防守しない都市に対する無差別の砲爆撃を禁止する。しかし例外を設けてはいる。

 

非戦闘員に甚大な被害を与える無差別の砲爆撃という極端なる害敵手段の行使が許される場合がある。それは戦闘状態に入ることが十分予測でき、民間人の多くがその場所を避けて他の安全地区へ逃げることができるある程度の時間的余裕があり、かつ占領作戦に支障が出るであろう場合にやむ終えず無差別砲撃がなされる場合、これは違法行為とされない。残留するものは占領軍に対峙する意思をもって残留していると解されるのだ。

では南京ではどうか。

 

昭和十二年十一月十一日、蒋介石は、部下による南京放棄論を退け、南京徹底死守論者の唐生智を南京防衛軍司令官に任命し、軍民を督促して南京に施されている防御工事の完成を急がせた。日本の大本営が中支那方面軍に南京攻略を命じた十二月一日の南京は、場内に残る人員は20万となっていた。

 その20万人はしかし戦火を免れるべく安全区を設置し、日本軍にここを攻撃しないように要請。それに対し日本大使館報道官は、南京城内に設置された安全地区の境界が判然とせず、これを管理する国際委員会に支那軍の安全地区への侵入を阻止する実力がないことを指摘し、次のような声明を発表している。

 

 「昨今の南京発の外国通信は、いわゆる南京中立地帯の委員なるものの活動状況、ならびに避難民流入の状況を伝えているが、日本当局としては実に異常の困難に鑑み、遺憾ながら、いわゆる安全地帯の設置につき何等の保障を与えることは能わざりしことは周知のごとくである。

 事実、南京の地勢、及び防御状況よりみて、南京はそれ全体としていわば一大要塞を構成するものというべく、かかる地域の中にいわゆる安全地帯なるものの存在することは、むしろ観念上の矛盾といわざるを得ず。 

 

 もとより帝国軍隊としては屡次声明の通り外国人の生命財産については勿論、一般支那人民に対しても、故意に戦争の惨禍を蒙らしめる意思は毫もない次第である。

 南京のいわゆる安全地帯なるものについては、如上の理由に基づき、何等の保障を与うること能わず。之に避難する者は総て自己の危険においてなすものと諒解せられたく、万一戦闘の影響が右地帯に波及するとも、責任を問わるべき地位に無きことを、この際、特に鮮明ならしめておきたい次第である。」

 

当然のことであります。ここを武力占領して便衣兵の掃討をしなくては南京攻略ができず、日本兵が危険にさらされるわけであるから。つまり掃討作戦をしても違法にはならない。

 

しかし松井大将はここへの日本兵の侵入を厳禁とした。

 その結果が例のラーベ委員長からの感謝状なのである。

 「私どもは貴軍の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙(the fine way)に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき貴軍と連絡をとり得るようになったことに対して、謝意を表するものである。」(南京安全地区国際委員会ラーベ委員長から日本大使館に宛てた十二月十四日付書簡)

 

 戦時国際法上、日本軍は安全地区を含む南京城全体に攻撃を加えても合法であったにかかわらず、敢えて身を危険にさらしても無差別攻撃や厳しき掃討作戦をなさなかったので、それへの感謝の手紙が来たのです。

 

 

 南京死守を申し出た司令官の唐生智は十二日夕方には真っ先かけて長江をわたり逃げてしまった。指揮官なき軍は全滅に近い被害を受けた。逃げる味方兵を城門の上から機関銃で撃つと言う大変な同士討ちが起きた。南京城外は死体の山だったと言う。これをなしたのは中国国民党軍。日本の「大虐殺」の証拠とされてしまっているが、その批判は全くあたらない。

 

 揚子江を筏で逃げる中国兵は途中筏がばらばらになり多くは溺死。逃げ遅れた何千人の兵は安全区に逃げ込み便衣兵となる。

国際法で禁じられている便衣兵(ゲリラ)と認定されてつかまる。本来はこの便衣兵は安全区の管理者が武装解除させ、戦争が終わるまで置いておくか、捕虜として引渡しの義務があるのであるが、人数や能力からそれができないのみならず、敗残兵をかくまりたい、保護したいとの思いがある。

日本との間にトラブルが起こり、反目が起こり、日本軍に不利な報告をすることとなる。結果敗残兵の掃討に強引さが出て、戦時のため、かなり杜撰な兵農分離餞別となってしまったと考えられる。農民がゲリラ兵と誤認されたケースも出たであろう。この便衣隊の処刑はおよそ三・四千人であろうと推測される。

しかしこれはあくまで戦闘行為。虐殺には当たらない。手榴弾など武器を相当数隠し持っていたし反攻のうわさで持ちきりであったため、戦闘目的であると解釈されても致し方なきこと。

 

捕虜虐殺とすぐに出す人がいるが誰でもいつでも捕虜になれるわけではないことはっておかねばなりません、

捕虜として扱うにはハーグ条約その他で一定の資格があるとされている。

 

統制のとれた軍が軍として投降し、

全武器を提出、

かつ受け入れ側が捕虜と認め捕虜収容所に連行して初めて捕虜の扱いを受ける。

敵対して弾が切れたからと、もろ手を挙げてきたからといって捕虜認定はできないのであります。

 逃げ惑う兵が揚子江を渡りきれずに逃げ遅れ幕府山の山麓に吹き溜まりのように集まっていた。捕まえたのは第十三軍の六十五連隊。しかし一万四千七百七十七人の武装した敗残兵を捕虜とできるわけがない。自軍より十倍ほど多い捕虜を扱えるわけがない。殺戮すべきを、偲びず、十六日十七日の二回にわけ揚子江の中洲に逃がそうと連行する途中捕虜暴動が起こりそのうちの相当数を殺してしまった事件はあったが、故意の殺戮でなく明らかに突発事故である。

 

これらはしかし虐殺では断じてない。戦闘行為である。

実際の戦闘では、十二月十日に日本軍の情理を尽くした投降勧告を拒絶した南京防衛軍司令官の唐生智が、安全地区から支那軍を撤退させず、安全地区の三ヶ所に塹壕を掘り、高射砲台を配置し、安全地区を支那軍の退避地帯として軍事利用していたにもかかわらず、日本軍は、非戦闘員を保護する為に安全地区を砲撃しなかったのである。

 南京城内の非戦闘員が集められていた安全地区に対して日本軍が砲撃しなかったことが、何故、「美挙」と賞賛され、感謝状まで送られたのか。それは他でもない、戦時国際法上、日本軍は安全地区を含む南京城全体に砲火を浴びせ軍民ともに打ち砕くことが許されたのに、敢えて軍事上の必要を犠牲にして人道上の配慮を優先し、無差別攻撃を実行しなかったからである。

 

 その結果として、城外に脱出できなかった支那軍の敗残兵が意図的に城内の安全地区に退避し、一般住民から民間人の服装を奪い取って便衣兵に化け、武器を隠し持って非戦闘員の中に潜伏し、日本軍は、南京が陥落した十二月十三日から約二週間に亘り、作業中に不意打ちされる危険を冒して民衆の中から便衣兵を摘発するという困難な任務を自ら背負い込む羽目に陥ったのである。

 

 南京虐殺肯定論者は、南京城内での日本軍による支那軍敗残兵の掃蕩戦を虐殺の範疇に含めるが、これはとんでもない無法な史論であり、安全区内に潜伏中の便衣兵は、捕虜でもなければ投降兵でもない。

 

継戦中の非合法戦闘員つまり交戦資格を満たさずに戦闘を行う戦争犯罪人であり、日本軍が便衣兵を探索捕捉し射殺(もしくは刺殺)することは、全くもって合法な戦闘行為であり、これを虐殺と非難することは、日本軍が退却する支那軍を追撃したことを虐殺と非難することと同じく至愚の論である、

 

南京入城後、掠奪、暴行といった日本軍将兵による極少数の不法行為の発生が松井大将に報告された際、松井大将は激怒し、累次の訓示にも拘わらず不法行為が発生したことを遺憾とし、全軍将校に不法行為の絶無を期するように訓示し、不法行為者を厳罰に処すべきことを主張したのであった。

 

 

 また南京虐殺肯定論者が虐殺行為として非難する日本軍の戦闘行為は、中支那方面軍の上級司令部から戦闘部隊に支那軍の投降を拒否せよとの命令が下され、幾つかの日本軍戦闘部隊が戦闘中に支那軍の投降兵を射殺したことである。

 

確かにハーグ陸戦法規第二十三条は、「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」を禁止する。

 

 しかしながら戦闘の進行中、敵軍の一部が投降せんとする場合に、味方軍がこれを受諾し投降兵を収容して後方に送致する為には味方軍の進撃を中止する必要を生じ、その事が味方軍の勝利を危うくする惧れのある場合には、味方軍の安全と勝利を確保する為に敵軍の降伏信号を黙殺して攻撃を継続する事が軍事上必要となる。

 

 故に戦時法規は一定の条件下において投降の拒否を認めるのである。この見解はオッペンハイムを始め多数の戦時国際法家に支持されており、疑いの余地なく正しい。

 

 「投降兵の助命は、次の場合に拒否しても差し支えない。第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、第二は、敵の戦争法規違反に対する報復として、第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危うくされる場合においてである。」(オッペンハイム)

 

センチメンタルに「捕虜を殺すなんて」と思う人は多いが、日本軍は捕虜と認定したのかをしっかり見なければならない。白旗を掲げれば捕虜という短絡志向は大局を過つ思考なのです。

 

多くの国民党軍の死者が出たのも、康生智が無責任に逃げたこと、ここに悲しみの原点があるように思えてなりません、

 

明日松井石根大将の慰霊も合わせて殉国七士慰霊祭に祈ってきます、

 

 

今朝は土を買い、三ヶ根七士庭園花壇整備時まで、お二人の協力を深く感謝します、五時から頼まれたアパートの垣根の剪定。途中でタイム

アップ。仕事にはいる







Last updated  2021.12.23 00:01:07
コメント(1) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
別の画像を表示
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、こちらをご確認ください。


Re:明日12月3日は上皇陛下のお誕生日(12/23)   拈華微笑 さん
2000年ころ朝日新聞が『朝日クロニカル週刊20世紀』
という本を週一で発行していました。
その1937年)昭和12年に「南京大虐殺!」
中国軍民10数万人が犠牲に、
″聖戦〃の名のもとの残虐非道 人々は「ウサギのように」殺された
というタイトルのもと、現在ではハナで笑うようなデタラメが
これでもかというほど書き散らかしてあります。

「南京城区には、40万~50万人(日中戦争前の人口は100万人以上)、
近郊の6つの県には100万人前後(戦前の人口は150万人以上)の住民および
難民が残留していたが、日本軍はこれらの膨大な民間人を巻き込んで、
中国人に対する徹底した包囲殲滅(皆殺し)参戦を実施した。」(原文ママ)

「本多勝一が百人切り競争を報道すると、イザヤ・ペンダサンや鈴木明氏が
新聞記者の創作だと主張。これを機に南京大虐殺″まぼろし〃論争が起こった。」(要約)

これらの記事の執筆は笠原十九司です。

水島聡さんの映画を見れば、これらが大嘘であることは一目瞭然です。
ご覧になっていないかたは是非DVDを購入してご覧ください。
日本人に、良心ある人を装った売国奴がそれなりの力を発揮できる地位に多く存在しているのが悔しくてたまりません。
(2021.12.24 16:54:46)


© Rakuten Group, Inc.