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三国志・中国史

2020.10.30
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テーマ:本日の1冊(3572)
カテゴリ:三国志・中国史
勉誠出版の「中国史書入門」シリーズ、隋書の次は「北斉書」を12月に刊行予定だそうです。
久しぶりに怪異ネタが見つかる予感(わくわく)。

北斉書は南北朝時代(晋と隋の間)の史書の1つですが、抄訳とはいえ1冊に収めるにはこの辺の時代でないと入らないのかも。

中国史書入門 現代語訳 北斉書

Amazonだと12/30発売予定になっていたので、書店に並ぶのは正月休み明けになりそう。






Last updated  2020.10.30 16:53:23
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2020.08.10
カテゴリ:三国志・中国史

最近は瑞兆・怪異ネタから遠ざかっていますが、面白そうな中国史の本は探して読んでいます。

「科挙ー中国の試験地獄」(宮崎 市定)は先生科挙受験しに行ったことあるんですか?というくらい臨場感たっぷりに書かれているので一気に読んでしまいました。

私も受験戦争を経験してはいるのですが、試験内容以前に字を間違えずに答案を作るのがまずムリ。
一応下書きはできるそうですが、清書しても5行目くらいまでで間違えちゃって壁に頭をがんがんぶつけちゃいそう・・


「侯景の乱始末記」(吉川 忠夫)はずっと絶版でプレミア価格だったのが去年再販されたそうです。
私も見つからなかったので図書館の書庫から出してもらいました。
新版は范曄の話も追加されててお得みたい。

宇宙大将軍に興味がわいた人はぜひ。
侯景の話は田中芳樹「長江落日賦」でも読めるのでお好みで。
他の収録作品が違うだけで、同じ人の話だし話の流れはほとんど同じです。。









Last updated  2020.08.10 10:07:10
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2017.08.22
カテゴリ:三国志・中国史

怪異以外のネタ・隋書

最後は怪異以外のお話をいくつか。

高祖
(p40)開皇二年十月癸寅、上の病が癒えたので、百官を観徳殿にもてなした。銭帛を賜うには、みなが自ら取るに任せ、百官も目一杯取って退出した。

★銭つかみ取り大会?一人一つかみ限りとか、配った袋に入るだけとか前もって決めておいた方がいいような。

 (p48)九月辛巳、上が素服を着て射殿に臨み、詔を下して、百官に梁士彦ら三家より召し上げた財物を射たせ、当てた物を賜った。

★梁士彦たちは罪を犯して資産を没収されたそうです。
現代で言う差押え品の競売みたいなものでしょうが、ゲーム感覚で楽しそう。
矢が当たると壊れる物もありそうなので、丸いボードに品名を書いて回して、ボードを射るなんて趣向もどうでしょう(パジェロはないだろうけど)。

 

煬帝
(p112)大業五年秋七月丁卯、馬の牧場を青海の水辺に作り、龍種を求めたが、成果が無かったので止めた。

★牧場はすぐ廃止されたような書き方ですが、もうちょっと根気よくやってもよかったのでは。

 

(p113)丁丑、角抵や雑伎を端門街で行い、全国の珍しい技芸や変わった曲芸がすべて集まり、月末まで行われた。帝はしばしばお忍びで見物に出かけた。己丑、倭国が使者を派遣して地方の名物を貢献した。

★倭国の使者は大道芸祭りには間に合ったのでしょうか。

 

(p113)六年春正月癸亥朔、朝に賊数十人が、みな白絹の冠と絹の衣を着て、香を焚いて花を持ち、弥勒仏と自称して、建国門から宮殿に入って行った。門番は皆額づいて礼拝した。そうして衛兵の武器を奪い、反乱を起こそうとした。

★クーデターの計画だったようです。未遂に終わったようですが、仏を自称するとはけしからん。


 

宣華夫人陳氏
帝紀ではあっさりした記述ですが、p158に、ほぼ隋唐演義に採用された通りの高祖弑逆(?)のいきさつが書いてあります。
しかし楊廣は今まで側室も置かずにイイ子ちゃんしてきたのに、高祖が重体という一番大事な時に、夫人に「押し迫った」りするかね。
もう即位確定と思って気が緩んだんでしょうか。


 

秦孝王楊俊
(p183)楊俊は工芸を好み、常に自ら刃物を手にして、作り上げる精巧な器物は、珠玉で飾られていた。妃のために七宝で飾られた頭巾を作ったこともあった。
また水際の宮殿を造営し、香の粉末を壁に塗り、金の階(きざはし)を玉でつなぎ、梁や柱と楣(まぐさ)や棟の間には明鏡が廻らされ、その間には宝珠がはめられ、装飾の美を極めた。

★楊俊は高祖の三男。器用な人だったようですね。職人の家にでも生まれた方が幸せだったかも・・
(誰かが、生まれ変われるとしても二度と皇族にはなりたくないと言ってたような)。
宮殿は漢代のお屋敷と比べると、よりきらびやかになっていますね。まぶしそう。

 

劉方
(p365)(林邑の)賊軍は巨象に乗って、四方から押し寄せた。劉方が弩で象を射ると、象は矢に当たって傷つき、かえって賊軍の陣を蹂躙した。

★戦象部隊キタ!とわくわくしたらこのオチ。戦象は大抵暴れて自陣に突っ込んでるような・・
この後ろに後漢の馬援が建てた銅柱を通過し~とあるので南方の戦いのお話です。







Last updated  2017.08.22 09:53:04
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2017.07.25
カテゴリ:三国志・中国史

瑞兆・怪異ネタ 隋書4

ここからは重臣の伝・芸術伝。
史記~三国志まではほとんどの人にあったのに、隋書の重臣は字(あざな)が書いてあったりなかったりなのは何故なのでしょう。
字が無い文化圏の人もいたから?

 

楊素

(p306)楊素に仁寿宮の造営を監督させた。楊素は山を穿ち谷を埋め、役夫を監督することたいそう厳しく、人足の多くが死に、宮の傍らでは時に霊の泣く声が聞こえるほどであった。

★ゴースト メイ クライ(ガクブル)。

 

韓擒虎

(p341)(略)衛兵の者が「我らは王を迎えに参ったのだ」と言い、忽然と消えていった。

また病気が重篤なものがおり、突然飛び起きて走り出し韓擒虎の家にやってきて「私は王に拝謁したくあります」と言った。韓擒虎の側近は「何の王か」と問うた。その人は「閻羅王です」と答えた。

韓擒虎の子弟たちはその人を鞭打とうとしたが、韓擒虎はそれを止め、「生きては上柱国となり、死んでは閻羅王となる。これはまた満足なことだ」と言った。それから病を患い、数日後についに没した。

★ピックアップされた将軍たちの中でまっとうな死に方したのはこの人くらいかも。
不思議エピソードがあるのもこの人くらいでした。閻魔様になる人って、庶民に人気があった人なイメージ。

 

〔諸葛亮の予言〕

史萬歳

(p359)(史萬歳が)軍を進めること数百里して、諸葛亮の紀功碑を見つけたが、その背面には、「萬歳(一万年)の後、我に勝る者がここを通ろう」と銘文が刻まれていた。左右の者に命じてその碑を倒させてから軍を進めた。

★昆州の南中あたりの異民族討伐に行った時の話だそうです。

諸葛亮「倒すなよ」

本当に一万年後の予言ということもなさそうだし、素直に史萬歳が「我に勝る者」なのか、彼が来た後に「我に勝る者」が来るのか、解釈に迷いましたが、史萬歳は「俺こそが諸葛亮に勝る者だもんね、予言は成就された」と碑を倒していった。のかな?

 

〔怪異の祓い方〕

蕭吉

(p464)東宮では奇怪なことが多く、鼠の怪異も何度となく出現したとの上言があった。上は蕭吉に命じて東宮に行かせ、邪気を祓わせた。
蕭吉が宣慈殿で神坐を設置すると、つむじ風が東北の鬼門から吹いてきて、太子の座を掃った。蕭吉が桃の木を煮た湯と葦の松明を用いてこの風を追い払うと、風は宮殿の門から出ていって止んだ。(略)

この時大変寒かったが、蝦蟇蛙が西南から出てきて、人門から入り、赤帝の座に登ると、戻る時も人門から出ていった。蝦蟇蛙は数歩進むと、すぐに見えなくなった。

★芸術伝にはいくつか怪異エピソードがありましたが、具体的なお祓いのやり方が書いてあったので、蕭吉さんを右代表と言うことで。

この後蕭吉は皇太子楊勇が位を保てないだろうと言ってますが、怪異があったからでしょうか。







Last updated  2017.07.25 09:14:47
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2017.07.11
カテゴリ:三国志・中国史

瑞兆・怪異ネタ 隋書3
さすがに煬帝時代には瑞兆は無いようです。

煬帝

(p92)(楊勇が廃嫡され楊廣が立太子された時)その夜、烈風と大雪があり、地は震え山は崩れ、民家は多く倒壊し、圧死する者は百人余りであった。

★高祖(73p)の方では、「十一月戌子、全土で地震があり、京師では暴風雪があった。晋王の楊廣を皇太子とした。」とあっさりした記述でしたが、こちらではハデに天変地異が起きてる・・

 

(p102)大業三年春正月丙子、武陽郡から、黄河の水が澄んだと上奏があった。
(p109)大業四年五月壬申、蜀郡では三足烏を一羽捕らえ、張掖では玄狐を一匹捕えた。
(p116)冬十月乙卯、底柱山が崩れて、黄河をせき止め逆流すること数十里であった。

★後漢書2巻にも濁った河の水が澄むのは不吉(諸侯が帝位を狙うしるし)とありましたね。

 

(p122)八年三月乙末、頓舎に二羽の大鳥が現れた。大きさは一丈余り、白い身で朱い足をしており、自由自在に泳いでいた。上はこれを珍しく思い、画工に命じて大鳥を描かせ、また称賛する碑を立てた。

★高句麗遠征のときの話ですが、この鳥も不吉の象徴?
鳥は宮殿に入ってきたりと、他にも何度か出ています。

 

(p133)十一年十二月戌寅、斛(ます)くらいの大きさの流星が、明月の軍営に落ちてその衝車を破壊した。
五月癸巳、大きな流星が呉郡に落ち、石となった。
十三年秋七月壬子、熒惑(けいわく)が積死に留まった。

★基本的に「○○が〇に入った」などの天文の事は入れていないのですが、「積死」というものすごい名前だったので入れました。

 

(p138)十一月丙辰、石が長江より浮かび上がり、揚子江に入っていくということがあった。日光が四方に散り、さながら血を流しているかのようであった。上は甚だそれを嫌悪した。

★煬帝が殺されたのはこの4か月後の三月なので、怪異も畳みかけてきています。
石「運河が出来たと聞いたし、ちょっと揚子江見物に行ってみるか」

 

文献獨孤皇后

(p157)仁寿二年八月甲子、四重の月暈が現れた。

★やはり直後に崩御したとあるので不吉なことのようです。







Last updated  2017.07.11 09:48:42
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2017.07.04
カテゴリ:三国志・中国史

瑞兆・怪異ネタ 隋書2

瑞兆・怪異ネタ 隋書その2です。
さすがにこの時代になると、龍や鳳凰などのファンタジーな生物はあまり出て来ませんね。

高祖(下)

(p54)八年九月癸巳、嘉州から龍が現れたと報告があった。

★龍出現はこの一か所だけでした。

 

(p55)九年春正月己巳、白虹が太陽を夾んだ。

★陳平定のあたりに書いてあったので、陳が滅びる予兆でしょうか。

 

(p60)十一年春正月丁酉、陳を平定した際に獲得した古い器物が多く怪異を起こしたので、すべて壊させた。

★いわゆる付喪神?どういう怪異かの記録もほしかったな。

 

(p66)十五年秋七月乙丑、晋王の楊廣が毛亀を献上した。

★晋王楊廣は煬帝のことです。毛亀は昔の絵にある甲羅の下側に毛がある亀ですかね。

 

(p69)十七年閏月己卯、鹿の群れが殿門より侵入し、侍衛に馴れ従った。

★門番か誰かが鹿せんべいでもあげてたのかもw

 

(p72)二十年夏四月乙亥、水を流すような音が、天の南から北に向かって聞こえた。

(p83)仁寿四年六月庚午、星が月の中に入り、数日して出た。長人が雁門に現れた。

秋七月乙未、太陽が青くなり光を失い、八日で元に戻った。

★高祖が病に臥したとあるのでその予兆ですかね。長人はたまにでてくる巨人?

 

(p86)乙卯、(高祖の)喪を発した。河間の楊の樹四株の葉が理由なく枯れ落ちたが、しばらくしてまた花や葉をつけた。

★高祖には息子が五人いましたが、楊廣に陥れられて廃嫡されたり讒言されて庶民に落とされたりで、楊廣以外残らなかったのを暗示しているのかな。







Last updated  2017.07.04 09:36:24
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2017.06.27
カテゴリ:三国志・中国史

「現代語訳 隋書」(勉誠出版)を読み終わったので、瑞兆・怪異ネタをご紹介。

高祖(上)
(p11)高祖文皇帝は、姓は楊氏、諱は堅、弘農郡華陰県の人である。漢の大尉である楊震の八代孫にあたる楊鉉が(以下略)

★隋の高祖は楊震の子孫とされてたんだそうです。
確かに本籍地は同じですが、八代孫のそのまた七代目くらいなので遠いにも程がありますが。
コラムにも信ぴょう性は薄い、鮮卑系の北方民族ではないかと書いてありました。



(p11)皇妣つまり高祖の母である呂氏が、大統七年六月癸丑の夜に、高祖を馮翊の般若寺で産んだところ、紫色の気が庭に充満した。(中略)

皇妣がかつて高祖を抱いていたところ、突如として頭に角が生えてきて、体中を鱗が覆うのを目の当たりにした。皇妣はたいそう驚いて、高祖を地に取り落としてしまった。
尼僧は外から入ってきて様子を見て「ああ、我が子に驚いて、天下を得る日を遅くしてしまいましたね」と言った。

★略した部分に、この尼僧は高祖が高貴になるといって、養育を申し出たと書いてありましたが、自分の子が爬虫類系の化け物になりかけたらふつー驚くわ。



(p12)高祖の容姿は龍のような形のあごをして、額の上に玉柱が頭頂まで生えており、眼光は射すくめるかのようで、手には「王」と浮き出ていた。

★特徴盛りだくさんですが、額の上に~は人相学的な何かなのかな?この本には注がないので不明です。


(p30)周の徳である木行が衰え、火運がすでに起こり(以下略)

★北周は木行、隋は火行とされていたそうです。



(p33)(開皇元年二月)京師では瑞雲が現れた。

(p34)(開皇元年)三月辛巳、高平では赤雀、太原では蒼鳥、長安では白雀がそれぞれ一羽ずつ獲らえられた。宣仁門の槐樹が枝を絡めあい、多くの枝が門の内側に伸びた。
巳丑、チュウ屋県が連理の枝を献上したので、これを宮庭に植えた。

(p37)(開皇元年)十一月己巳、流星があり、音は垣根が崩れるかのようで、光は地を照らした。

★恒例の即位時瑞兆特集。


(p41)三年三月丁未、京師から醴泉が湧いた。

★その前に雨が降ったという記述が(わざわざ)あるので、旱魃だったのでしょうか。

 
(p44)四年正月辛卯、渝州で鹿に似て、一角で蹄の別れていない獣が捕えられた。

★ユニコーンかな?

 
(p47)五年八月戌申、流星が数百個、四散して下った。

 

〔三段活用〕

(p38)開皇二年二月庚子、京師に土が降った。

(p48)六年秋七月乙丑、京師で毛が降った。馬のたてがみと尻尾のようで、長いものは二尺あまり、短いものは六、七寸であった。

(p50)七年五月己卯、武安から滏陽までの間、十里あまりに石が降った。

★いろいろなものが降ってくる隋朝。
土や石もすごいですが、毛が降るというのもすごい。聞いただけで鼻がむずむずしてきます。







Last updated  2017.06.27 10:12:57
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2017.06.19
カテゴリ:三国志・中国史
昨日のエグゼイドは、毎年恒例のゴルフバグスター襲来で休止でした (^_^;)

4月に「現代語訳 隋書(勉誠出版)」が出るという情報を見つけてから、やっと昨日読み始めることができたので、また瑞兆・怪異ネタを紹介しようと思います。

ぱらぱらめくった段階では、朝貢や出兵、反乱の記録ばかりでがっかりしたのですが、読み始めるとけっこうネタが見つかりました。
全訳ではなく、帝紀・帝室(近親者のみ)・重臣の一部・列女伝・芸術伝の訳だそうですが、瑞兆や怪異の記録は帝紀と五行志あたりに集中しているので、6~7割は拾えたと思います。

更なる怪異を探したいので、晋書以降も訳してほしいなー。
日本語訳書は三国志から隋に飛んでるので、間が抜けてて気になるし。






Last updated  2017.06.19 09:57:12
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2016.09.29
カテゴリ:三国志・中国史

世説新語(旧魏臣その他)
最後は旧魏臣の子孫その他のエピソードをご紹介。

言語第二(二〇)満奮は風が嫌いだった。晋の武帝(司馬炎)の座に列席していたとき、北の窓に瑠璃の扉がはめてあったが、実際には気密性が高いのに、スカスカのように見えた。
満奮は嫌そうな顔をした。武帝が笑うと、満奮は言った。「私は、呉の牛が月を見て喘ぐのと同じなのです」

★満奮は満寵の孫。風が嫌いって、隙間風で寒いのが嫌なのか、砂ぼこり等が嫌なのか、髪型が乱れるのが嫌なのか。
原注によると、「呉一帯は気温が高いため、牛は月を見ても太陽かと思って喘ぐという」。
・・そこまで暑いの!?


雅量第六(三)夏侯太初(夏侯玄)は、あるとき柱に寄りかかって手紙を書いていた。
ちょうどそのとき、大雨が降り、雷が落ちて寄りかかっていた柱が裂け、着物が黒焦げになったけれども、表情も変えず、手紙の方ももとのまま書いていた。
来客や側近の者はみな、狼狽してじっとしていられなかった。

★夏侯玄は、夏侯淵の従子(おい)夏侯尚の息子。
家に雷が落ちたら普通狼狽しますって。まだ手紙を書いていたなら、感電して動けなかったとかではないんですよね?
着物の方に電流が流れたようで良かった。


術解第二十(二)荀勗はある時西晋の武帝(司馬炎)の宴席で、筍とご飯を食べ、同席していた人々に向かって言った。「これは使い古した木の薪で料理したものです」
同席していた者は信用せず、こっそりたずねたところ、なんと古い車の軸脚を薪にしたものだった。

★荀勗(じゅんきょく)は荀爽の曾孫。
そんな事までわかるなんて、料理マンガの登場人物みたいですね。ご飯に古い木の臭いが移っていたのかな。

音楽の才能も有り、宮中の音律を整えたという逸話もあるようですが、
暗愚な恵帝を後継に推したり、恵帝と賈后の結婚を薦めたりと、佞臣として評判は悪いようです。


巧芸第二十一(四)鍾会は荀済北(荀勗)の母方の叔父だったが、二人は仲が悪かった。

荀勗は宝剣を持っていたが、百万銭もの値打ちがあり、いつも母の鍾夫人のもとに置いていた。鍾会は書がうまかったので、荀勗の筆跡を真似て手紙を書き、その母に送って宝剣を取り寄せ、盗み取って返さなかった。
荀勗は鍾会の仕業だとわかったが、取り返す手段もなく、彼に仕返しをする方法を考えた。

その後、鍾兄弟(鍾毓(いく)・鍾会)は千万銭をかけて邸宅を建てた。完成したばかりで、大変立派だったけれども、まだ移り住むに至らなかった。
荀勗はきわめて画がうまく、そこでこっそり出かけて行って、その門堂に太傅(鍾繇)の肖像画を描きつけた。服装や容貌は生前そっくりだった。
鍾毓(いく)と鍾会は門に入った途端、大いに胸打たれ、邸宅はそのまま住む人もなく朽ちていった。

★叔父甥才能の無駄遣い対決(苦笑)。書に巧みと言われてるのに、偽造エピソード(演義でも詔書を偽造していたような)ばかりの鍾会・・

荀勗は音感があってグルメで画の才能もあるけど、性格が悪い。のね。


排調第二十五(四四)郗司空(郗愔(ちいん))が北府(徐州刺史)を拝命したとき、王黄門(王徽之)は郗家に挨拶に来て言った。「応変の将略は、其の長ずる所に非ず」
しきりにこの言葉を唱えてやめなかった。

郗倉(郗愔の次男郗融)は嘉賓(郗超)に向かって言った。「父上は今日、北府を拝命されたのに、子猷の言い草は不遜きわまりない。絶対に許せません」

嘉賓は言った。「この言葉は陳寿の諸葛亮評だ。人がお前の父を武侯(諸葛亮)になぞらえているのに、何の文句があるか」

 

★子孫の話ではありませんが、諸葛亮の名前が出ているし、好きな話なので。
たぶん機会はないだろうけど、「応変の将略は~」を使って皮肉言ってみたいw

諸葛亮死後100年以上は経った後の話ですが、陳寿の評は有名だったのですね。郗超・郗融と王徽之は従兄弟だそうです。

王徽之は郗愔に刺史なんか勤まるわけがない、とくさしているわけですが、陳寿は「丞相は臨機応変とか、そういうの苦手だから(震え声)」とフォローしていると思う。







Last updated  2016.09.29 09:07:24
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2016.09.02
カテゴリ:三国志・中国史

世説新語(曹氏)

今回は曹操・曹叡を中心としたエピソードです。

 

捷悟第十一(四)魏の武帝(曹操)が袁本初(袁紹)を征伐しようとしたとき、装備の余剰に数十斛の竹切れが出た。どれも長さは数寸だった。
人々は言った。「どれも使い物にならない。焼却させるほかない」

太祖(曹操)はこの使い道を考え、竹椑楯(竹を編んだ楯)を作ればよいと思った。
しかし、そのことを明言せず、使者を主簿の楊徳祖(楊脩)のもとに走らせ、たずねさせた。
(楊脩は)即座にこれに答え、武帝の考えと一致していた。人々はその頭の回転の速さに脱帽した。

★他の3つ(ヨーグルト・門・石碑の話)は知っていましたが、これは聞いたことのない話だったので収録。


巧芸第二十一(二)陵雲台の楼台は精緻に造られていた。まず(用いる)材木の軽重を計り均等にしたうえで、組み立てたので、わずかばかりの狂いも生じなかった。
楼台は高くけわしくそびえたち、常に風のまにまに揺れ動いたけれども、傾き倒れる恐れは無かった。

魏の明帝(曹叡)は楼台に登って、その危険な様子に恐れを抱き、別に大きな材木で支えさせたところ、楼台はまたたく間に崩壊した。論者は言った。「軽重のバランスが偏ったためだ」

★免震構造?ちょっとの風で揺れるのは怖いけど。
曹叡は建築好きなはずなのに、説明受けなかったのかな。


仮譎第二十七(五)袁紹は若いとき、人を使って夜に、剣を魏武(曹操)に投げつけさせたが、やや低くて命中しなかった。
魏武は次に投げられる時は、必ず高いだろうと計算した。そこで、寝台にぴったりと腹這いになって伏せたところ、剣の飛んでくるのが、果たせるかな、高かった。

★仮譎とは人を欺くことだそうです。ここでは曹操の話が満載で、袁紹との花嫁略奪エピソードや、梅林の話が載っていました。
曹操「お前の考えることくらいお見通しなんだよ」


容止第十四(二)何平叔(何晏)は姿かたちが美しく、顔は大変色白だった。
魏の明帝(曹叡)は彼がおしろいを塗っているのではないかと疑い、ちょうど夏に、熱々のワンタンスープを食べさせた。
(何晏は)食べ終わると、汗がびっしょり出たので、赤い着物でぬぐったところ、顔の色はますます冴え冴えと真っ白だった。

★何晏は美形で有名ですが、色白なのは五石散の副作用だったりして・・







Last updated  2016.09.02 09:30:06
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