足尾銅山.本山製錬所.
足尾町は.まわりを大小の山々に囲まれた谷間の町で.銅が発見されるまでは、人里はなれたひっそりとした山村でした。慶長15(1610)年、備前楯山に銅が発見されたと言われその後.江戸幕府直営の鉱山として大いに栄え、足尾千軒”といわれる程、人家も建ちならびました.そして、足尾でとれた銅は東照宮や江戸城、芝の増上寺、上野の寛永寺の屋根に使われたり、寛永通宝(足字銭)というお金にもなり約2億枚が製造され. しだいに銅が取れなくなり、廃山のようになってしまいました。明治10年になって「古河市兵衛」が経営するようになり.そして当時日本の鉱山運営において最新の技術、設備をとり入れた事により、銅山は急速に発展し、我が国の産銅の40%以上を生産し、東洋一の銅山とよばれるようになりました.しかし、産銅の増大に伴い、煙害や水質土壌汚染が広がり、深刻な問題となりました。明治24(1890) 年 田中正造が国会で、足尾銅山鉱毒問題を取り上げ、大きな社会問題へと発展していきました。大正5(1916)年には人口も、38、428人に達し、県内では宇都宮市(5万8千余人)に次ぐにぎわいを見せました。その後、戦争のために無計画に掘り出した結果、銅を思うように生産できなくなりました。 ついに、400年近くも続いた「足尾銅山」も1973.年2月に様々な歴史を残して閉山となりました。現在は過去を踏まえて.世界遺産登録目指して.街の復興をしています.詳しくは.メインブログで.足尾銅山を特集しています.http://syd.blog2.fc2.com/blog-category-42.html