2005/09/11(日)23:33
俳句甲子園に一言
そんなに、けなしたり、ケチをつけたりせず、
お互いの句を褒めあったら、
もっと良い大会になると思うのだけど。
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深夜のNHKで高校生(5人一組)が、自作の俳句を読んで、
相手チームと勝負する「俳句甲子園」の様子が、放送されていました。
対戦方法は、一句 vs 一句。
お題に沿って、お互い一句ずつ読みあい、
相手の句に対して、制限時間内にディベートをします。
最終的に専門家らで構成される審判が旗を揚げ、
どちらの句が良かったか、勝負を決します。
これを柔道や剣道の団体戦のように5本勝負をし、
先に3勝した高校がトーナメントを勝ち上がります。
今どきの高校生が純粋に俳句を読み、
競い合う姿は、感心しました。
先ごろの事件などを見ていると、
高校生と俳句って、なかなか結びつかないもので……。
でも、句を読んだ後のディベートが、
どうにも「ケチつけ合戦」に聞こえてしまって、
僕は、それがとても不満でした。
「○○という言葉は、このお題に似合わない」
「字余りで、リズムを崩している」
「○○は、高校生らしくないのではないか?」
などなど。
高校生たちの勝ちたい気持ちは伝わってきましたが、
このディベートを聞いていて、
2つのことを感じました。
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まず、一般的なものも含めて、ディベートについて。
日本人のディベートって、揚げ足取り、ケチをつける、
というものが多い気がします。
何かのバラエティー番組で、
小学生のディベート教室が取り上げられていて、
その中に出てきた子どもたちが、
「○○法の第△条に書いてあります」
「最初の○○と、次の△△には矛盾があります」
などと、言っているのを聞いて、
なんか恐ろしくなって、チャンネルを変えました。
そんなディベート教室に通っていたら、
人の言葉の揚げ足取りしか出来なくなるような気がして、
とても怖いです。
企業の交渉や、裁判なら、そういう言い方も分かるけど、
でも、やっぱ、嫌ですね。
ディベートや討論と聞くと、
国際評論家の岡本幸夫さんが
おっしゃった言葉を思い出します。
『会議や交渉、それが企業でも外交でも、
ユーモアが大事なんですよ。
なぜなら、議論や交渉というのは、
相手を屈服させたり、無理強いするものでなく、
相手も自分も、ハッピーになるためのものだから』
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そして、俳句も含めた文学について。
文学って、言葉って、人によって感じ方が違います。
だから、俳句甲子園で、「あの言葉が」「この言い回しが」
とディベートするのは、愚の骨頂です。
子どもの絵日記だって、芥川賞の小説だって、
同じ文学だと思います。
別の言い方をすれば、
同じ言葉(特に歌)を聞いても、
感動する人や、何も感じない人もいます。
指輪物語を書いたJ.R.R.トールキン曰く。
(ただし、井上の解釈により文章を修飾しています)
『作家が文章を書くというのは“半創造”なんです。
半分は、作者が創る部分。
もう半分は、読者がイメージで創る部分。
だから、こうだ!と決め付けるのではなく、
読者に創造する余地を残しておくんです。
すると、読者は空想に思いを馳せながら、
心を躍らせて読むことが出来るんです』
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僕が思うに、俳句甲子園の場合、
句を読んだら、ディベートや説明はしないほうが良い。
「この“ため息”という言葉に、
高校生の行き場の無い気持ちが込められているんです」
などという説明は、不要。
句を読んだ時点で、その句に対するイメージは、
読者に委ねられるべきです。
だから、お互い句を読んだ後、
笑っていいとものようにお客さんにスイッチを持ってもらって、
どっちが良い句か、多数決で決める。
それくらいシンプルで良いんじゃないかな?
どうしてもディベートが必要なら、
相手の句をけなすのではなく、褒めること。
相手の揚げ足取りや、使った言葉への追求ではなく、
良いところを探して、素直に「良い」と言う。
そうして、もっと俳句を詠みたい、と思う人も増えるだろうし、
褒めあった高校生同士、友情が生まれると思います。
今のままのディベートでは、
未来の俳句界は、お先真っ暗のような気がしてなりません。
…………こんなこという僕は、甘いでしょうか?