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雪香楼箚記

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アンスカ国文学会


2006年06月22日
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またや見ん交野の御野の桜がり花の雪散る春のあけぼの

〔所収〕新古今和歌集巻第二春歌下114番
〔詞書〕摂政太政大臣家に五首歌よみ侍けるに
〔作者〕皇太后宮大夫俊成(藤原氏)
〔通釈〕はたしてまた見ることができるだろうか、交野の野に花の雪が散る春のあけぼのの桜がりを。





 定家とは違って、俊成は当代随一の歌人でありながらひどくひかえめな人だったと伝えられています。ほとんど自作を褒めることもなかったそうですが、そのなかでこの「またや見ん」の歌にはめずらしく「すこしはよろしきにやと思ひたまへはべりし」(慈鎮和尚自歌合判詞)という感想を残しているところを見ると、よほどに自信があった歌であるようです。そしてその俊成の自讃にたがわず、たしかにこの一首は古往今来に類のない桜の名歌であるといえるでしょう。
 初句「またや見ん」のヤには古くより二説があります。一は疑問もしくは詠嘆の係助詞と取って、また見ることがあろうか、と解する説。一は反語の係助詞と取って、また見ることがあろうか、いやあるまい、と解する説。現在の註釈書でも説が分れている場合がありますが、このヤを反語と見ることには無理があるだろうとわたしは思います。ちょっと文法の話になりますがおつきあいください。
 疑問と反語がどう違うかといえば、「また……見る」ことが不確かであると考えるところまでは二つとも同じことなのです。言葉の末に添えて疑しい見通しを示すのが助詞ヤの原義でして、この疑しさを特に強調すると、疑問がつよい否定となって「また見ることがあろうか、いやあるまい」という反語の用法が生れてきます。
 ただしヤの疑問と反語の用法には上接語による使いわけがありまして、反語の場合には「紅のはつ花染めの色ふかく思ひし心われ忘れめや」(古今集 読人しらず)のように、用言の已然形にヤがつくかたちを取ります(下二段動詞未然形「忘れ」+推量の助動詞ムの已然形「め」+反語用法による係助詞ヤ)。この歌の場合、ヤの上接語「また」は副詞ですから接続にいささか無理がある。本来は「またや見め」もしくは「また見めや」などとなるべきところです。
 そもそも、このヤをあえて反語に取って、「いや見ることはあるまい」という否定のこころを下に読まなくとも、次につづく交野という地名に込められた掛詞(難し)に歌の意はあらわれてきます。また見ることがあろうか、いや、それはむずかしい、と自然に解することができる。そこへさらに反語を重ねることは煩いし、また反語の持つつよい否定のニュアンスよりも、疑問の語調によって淡い諦観の込められた語として見るほうが味いは深いような気がします。
 初句で一度切れ、「見る」の内容が二句以降で述べられてゆく、典型的な新古今ぶりの歌ですが、この歌は特に初句のたけが高く、はっきりと言いはなつ語気に満ちています。それだけに、この一瞬の春のあけぼのをつよく愛惜し、味いつくそうとする歌人のこころがよくあらわれているといえましょう。語義の解釈は解釈として、一句の姿そのもののうちにあるしらべの気韻に耳を傾けることが大切です。無常を詠もうとしている句ではありますが、決してその声音はしめっておらず、むしろ無常迅速の世界のなかにあってそれと真向から対峙し、風流に命をすら描けようとするかのような俊成の覚悟さえ漂ってくるような気がします。
 交野は河内国交野郡のことで、古くよりこの地に朝廷の狩場があったために「御野」の名があります。なおこの歌にいう交野の御野は現在の枚方市禁野のあたりとも伝えますが、それは当座のところどうでもかまわないことでしょう。それよりも大事なのは、この交野の地が伊勢物語に出てくることです。

    昔、惟高の親王申すみこおはしましけり。山崎のあなたに水無瀬といふところに宮ありけ
   り。年ごとの桜の花ざかりにはその宮へなむおはしましける。そのとき右馬頭なりける人を
   つねにゐておはしましけり。時世へて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩りは
   ねんごろにもせで、酒を飲みのみつつ、やまと歌にかかれにけり。今、狩りする交野の渚
   の家、その院の桜ことにおもしろく、その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、
   上中下みな歌詠みけり。右馬頭なりける人の詠める。

     世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

   となむ詠みたりける。(八十二段)

右馬頭なりける人というのは誰のことかわかりませんが、「世の中に」の歌が古今集には業平の名で採られていますから、おそらく俊成もこの挿話は惟高親王と業平のことだと考えていたのではないでしょうか。
 歌のうちに詠みこまれる地名を歌枕といいますが、歌枕は地名でありさえすれば何でもいいというわけではありません。その地名が文学的な幻想を成りたたせなければ、歌枕とするにはふさわしくない。文学的幻想とは、つまりその土地が先行する詩歌や物語のなかで重要な役回りを果たしていて、その名を聞いただけでふとイメージの連想を呼ぶようなものであるということにほかなりませんから、俊成の歌の交野もこの伊勢物語の裏づけがあってはじめて歌枕としてのはたらきを持つのです。
 風流な貴公子がお供の公卿たちを引きつれて郊外へ泊りがけで狩にゆく。折しも交野の別邸では桜の花ざかりで、主従ともに風流人揃いの一座は狩もそこそこに酒宴をひらき、歌を詠んで、たのしく一日を暮します。なかでもいちばんの美男子が「世の中に桜なんてものがなければいいのに、そしたら心のどかに春の日をすごせるのに」(下にはもちろん、世の中に女の人がいなければ、という含意があるのでしょう)という歌を詠んで評判を取る……。いかにものどかで、みやびやかで、春らしい物語の情景ですが、そのさまを「交野の御野」という句のうちに込めることで、俊成は一首のうちにほのぼのとした春の幻想的な美しさを漂わせようとしているのです。
 あの伊勢物語の話のように美しい交野の御野の桜、それを今、わたしも見ている。見て、そのあまりの美しさに心をうばわれ、二度とこのようなあけぼのは目にすることすらできまいと思ったのだ、と俊成は言う。その奥では業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば」という歌のこころがひそやかな通奏低音を奏でています。桜がなければ春のこころはのどかだろう、しかしそんなことは現実にはありえない、だからこのひとときの美を命をかけて味うよりほかはない。その、今このときに賭けようとする歌人の勁烈な心はまた、業平から引きつがれて俊成の「またや見ん」という一句にもあらわれています。歌枕を詠むということは、つまりそういうことなのでしょう。





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最終更新日  2006年06月27日 09時56分41秒
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