雪香楼箚記

2006/06/27(火)10:00

風通ふ 2

 「春の夜の夢」という言いまわしそのものは、「まどろまぬ夢(かべ)にも人を見つるかなまさしからなむ春の夜の夢」(古今集 駿河)や「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たん名こそ惜しけれ」(周防内侍)以来、男女のことを婉曲にほのめかす表現としてさかんに用いられたものですが、枕と取りあわせて詠んだ歌は意外にめずらしく、和泉式部の歌が最初ではないでしょうか。俊成女の歌には枕が語るということを直接には言っていませんが、言外の意としてそこまで読むことはおそらく不可能ではないと思います。  和泉式部の歌では、二人きりで共寝したから春の夜の密事を枕でさえ知ることができない。ところが俊成女の歌ではそれとちょうど反対に、枕はあったのだけれども、春の夜の夢がほんとうの夢まぼろしで、男は通ってこなかったのだから語るべき密事そのものがない。どちらも枕が春の夜の夢を語れないというところは同じですが、その内容がまったく逆転しているところに「風通ふ」の歌のおもしろさがあります。  来もしない恋人をそれでもと待ちあかして、転寝の夢のかない逢瀬をよろこんだのも束の間、花の香の風にふと寝覚めてみると、それはやはりただの夢でしかなくて、ひとり寝の枕辺にはただ艶めいた香だけがただよっている……。そのやるせない寂寞としたむなしさのようなものが「春の夜の夢」という留めの句によくあらわれています。言うまでもなくこれは定家の「春の夜の夢の浮橋と絶えして峰別るる横雲の空」(新古今集)という傑作を意識した表現なのでしょうけれども、一首の最後に据えられて全体を承けることによって定家の歌にはない静かな抒情性のようなものがあらわれています。歌のうちにある感情の流れが留めの句によってぷつりと切断されてしまうのではなく、長く長く余韻を引きながら次第にその響きをうすらがせてゆく渺茫たる味いは、やはりこの俊成女の工夫があってはじめて可能になったことであるといえましょう。  もちろんそのためには初句からはじまる周到な配慮が必要です。連体修飾形とノによって、一句のなかで解決をつけずに下へ下へとリレーのようにつなぎ、最終的にすべてが「夢」の一語にかかるような詠みかたをすることで、流麗なしらべと意図的に朧化された表現が生れてゆく。ことに素晴しいのは「花の香にかをる枕の」というくだりで、この「かをる」という詞が「枕」にも「夢」にもかかるようなあいまいな細工を施されることで、一首の魅力はさらに複雑なものになっています。  いったいかぐわしく香っているのは枕なのか、それとも一夜の夢なのか。この問題に代表されるように、この俊成女の歌はそういう細かい名詞どうしの関係がはっきりしない。あいまいにぼかされています。だからこそ難解歌とも言われるのでしょうが、しかし大事なのは、その難解さやあいまいさが歌をそこなうどころか、一首の魅力そのものを成しているということなのです。  香っているのは枕かもしれない。夢そのものかもしれない。しかし夢はこの歌の全体を蔽って、枕はその夢の一部分を成す小道具に過ぎません。だから枕が香るということは夢が香るということであり、夢が香るということは枕が香るということにほかならないのです。そしてそうしたあいまいな関係のなかにこの歌のすべてが大きく包みこまれるとき、一首の読後に残るのはただ艶麗な夢の記憶とそれを美しく彩る花の香のみです。細部はそれを読みすすめてゆくうちに意識の前景から遠ざかり、後にはただ夢との香印象だけがふわりとあわく残る。それはあたかも古い赤ワインを舌から喉へと送りこんだとき、味や舌ざわりという具体的なものは消えうせ、しかし味いの名残と匂いが渾然となったごく抽象的な何かが鼻腔の奥にたゆたっているような感じに似ています。すぐに消えさってしまうはかなくあわい印象であるだけに、それが「夢」であり「香」であることのふさわしさには、歌人の緻密な計算さえ考えることができるのではないでしょうか。  おそらくこの歌を詠むときに俊成女の心のうちにあったのは、そうした読後に残るあわい印象だったのではないかとわたしは思います。一首のうちに何かを描写したり、説明したりしたいと考えて、彼女はこの歌を詠んだのではないのです。ただ、三十一文字を読みおえたときにふわりとただよってくる夢と香にすべてを賭けた。だからこそこの歌のなかに詠みこまれたさまざまな詞は、それがお互いにどう関係しあっているかははっきりしないのです。風が通うのは寝覚なのか、枕なのか、夢なのか。花の香に香るのは枕なのか、夢なのか。そういったことは曖昧にして朦朧としている。けれどもそれでありながら、この歌の詞たちはたがいにゆらぎあい、美しい音色を響かせあって、一篇の美しい音律を成している。そしてその嫋々たる余韻が、「春の夜の夢」というところまで読みおえた読者の心を、あえかに、やわらかくしめつける。  ここにあるのは何かの情景ではなくてひとつ風情なのでしょう。だからこそ詞と詞の関係がよくわからなくても、詠みすすめ、読みすすめてゆくうちに、何とはなしの雰囲気や情緒が歌のなかに生れ、最後にはそれに説得されてしまう。いささか極端ではありすぎますが、たしかにこれは新古今特有の歌風を示した歌です。俊成女に代表される新古今歌人たちは、もはや歌が何かを詠んでいるというだけでは安心できないところにいたのです。何かを詠むことで、そこにどのような風情や情緒が生れるのか。それが彼らにとっての問題でした。だからこそそれがつよく追求されれば、この歌のように何かの情景を詠むために詞を連ねるのではなく、適当に詞を選んで一首の韻律に乗せてゆくなかでそこに醸されてくる風情を尊ぶ作歌法すら生れてくるのです。歌は、新古今という時代において大きく変質したといわざるをえません。  しかしそのことはともかくとして、この「風通ふ」の一首の持つ清艶の趣はどうでしょうか。夜半の花の香を詠みながら詞のひとつひとつが恋歌のそれと繊細に重ねあわされ、イメージの輻輳のうちに言うに言われない艶やかさが匂いたってくるようです。花の香につつまれて見る夢がいつの間にかひとり寝の艶夢となるように、桜を詠んだ歌だと思って安心して近づく読者を恋歌の趣向がからめとってしまうかのような手の込んだ細工は、この歌の韻律とよく照応しあって、ひとつの玲瓏とした世界をつくりあげています。花を思うこころはいつしか恋心へとすりかえられ、しかもそれが無理なくまた花を思うこころのうちに還元される。この複雑微妙な心理のゆらぎのうちに、人間の感情どうしが持つふしぎな共通性――花を愛するということと人を愛するということの――のあらわれていることを思うとき、愛するという感情がそれ自身においていかに純粋で美しいものであるかということに、この歌人が深くとらわれていたことは容易に想像できるのです。  一首の余韻のうちに夢と香だけが幻のごとく匂いたつように、花を思い、人を恋うるこころは、ただ愛するという純粋なかたちの感情となってしらべのうちにあらわれてくるのです。

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