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葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲 〔所収〕新古今和歌集巻第一春歌上87番 〔詞書〕和歌所にて歌つかふまつりしに、春歌とてよめる 〔作者〕寂蓮法師 〔通釈〕葛城の高間の峰には桜が咲いた。立田の山の奥に白雲がかかったようだ。 新古今歌人たちは和歌の座興として連歌をさかんに作りました。和歌の上句と下句を交互に詠みつぐ連歌の形式がある程度の成熟を見せたのは院政末期ごろからだといわれていますが、後鳥羽院がこの遊びをことに好んだこともあって、『新古今』編纂のため集められた歌人たちを中心に、この当時かなりの数の連歌作品が作られたことがわかっています。 もっとも残念なことに、新古今期の連歌のうち完全なかたちで現在まで伝っている作品はありません。付合のいくつかが南北朝期に編纂された『菟玖波集』に収められているだけで、たとえば「結ぶ契りの先の世も憂し/夕顔の花なき宿の露の間に」(定家)という付合が「後鳥羽院の御時、三字中略、四字上下略の連歌に」詠まれたことまではわかりますが、その全体を知ることは今となっては不可能です。和気藹々もしくは喧々諤々と、歌人たちがこの文学的遊戯に親しんだであろうことを、想像するよりほかはない。 ただし、後鳥羽院や定家たちがこのころずいぶん連歌に夢中になっていたというそのことは注意する必要があります。和歌によく似た、しかし和歌とはすこし違うこの形式が、彼らの歌作に影響を与えなかったはずがない。 たとえばこの寂蓮の歌も、よく読んでみると上句と下句でしらべがばっさりと切れてしまっています。上句が葛城と高間という歌枕をあげて桜の花を詠めば、下句はそれを立田で承けて白雲をあしらう。あたかも上下が歌仙でいうところの向付に近い関係になっていて、連歌の呼吸で一首が仕立てられています。 この歌は、古くから地名の使いかたに難儀のある作だとされてきました。奈良盆地は東西南の三方を山に取りかこまれた米粒型をしていますが、そのうち西の一辺の中央部にやや広い山脈の切れめがあります。これが奈良から大阪へと大和川が流れてゆく通りぐちで、その北には生駒山と信貴山、南には葛城山と金剛山を中心とする山脈がつづきます。葛城は南の葛城金剛の山脈一帯を指したもので、高間はその最高峰である金剛山のこと、立田は信貴山の麓にある里。つまり大和川の通りぬける山脈の切れめを隔てて、この歌にいう高間と立田は向いあわせになっています。その間、十数キロ。 これだけの距離を隔てて「立田の奥」に「高間の桜」が咲いたのが見えるはずがない、という実証的であるような、あまり実証的でもないような説が、室町時代の古註には散見されます。そもそも「立田の奥に白雲が見える。いや、白雲かと思ったら高間の桜だった」という順序ならまだしも、それを逆にして「高間の桜が見える。立田の奥に白雲がかかったようだ」とするから、いっそうわかりにくくなる。どうして高間からはるかに離れた立田という地名を持ちださなくてはならないかがはっきりしない。 しかしその疑問は、この歌が連歌仕立の作であるということに気づけば、かんたんに解決することができるのではないでしょうか。連歌の骨法は、前句を付句が受けるところにあります。たとえば前句が謎をかける。付句がその謎を解く。そこにひとつの世界ができあがる。あるいは前句がごく平凡な内容を詠めば、付句がそれを取りなして、前句の作者が思ってもみなかったものに見立てる。何人もで五七五と七七とを交互に合作してゆく形式のおもしろさは、そういうところにあります。 寂蓮のこの歌も、作者は上句下句とも同一人ですが、こころは別人のつもりで二句の連歌を行っています。まず第一の作者が「葛城や高間の桜咲きにけり」とした。これはどうということのない実景の作です。しゃれた趣向があるわけでも、ひねったうがちがあるわけでもない。そこで、これにつける第二の作者の立場としては、何か趣向のある句を詠んで付合に変化を起こさなくてはならない。それも付ける句それ自体が変った趣向を持つだけではなくて、その句を付けることによって付けられた前句にも新たな趣向が生れてくるような句でなければならない。 そこで寂蓮は見立を行います。高間のあたりの峰の桜が咲いているという何の変哲もない上句に、下句で意外な解釈を与える。あれは立田の奥にかかる白雲なのだ、と。なぜ白雲なのか。桜を雲に見立てることは和歌の常套ですが(「さくら花」の項参照)、それだけではありません。ここには見立の趣向としてきちんとした俤がある。『古今集』と『伊勢物語』にある 風吹けば沖つ白波立田山夜半にや君がひとり越ゆらん(読人しらず) という古歌がそれです。 もともとこの歌は波が立つということと地名の立田を掛けたもので、「白波」に深い意味はないのですが、後代になると白波を立田という歌枕と結びつけて用いることが多くなってゆきます。おそらく寂蓮の歌はそれをもうひとひねりして、波のように白い雲というイメージを出した。桜を波と重ねることは、すでに紀貫之に「さくら花散りぬる風の名残には水なき空に波ぞたちける」(古今集)という名歌がありますから、当時の歌人たちにとってはごく自然なことでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月01日 08時49分36秒
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