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ぼくがこれまで見たなかで、いちばん便利だなと思った辞典は『歌舞伎人名辞典』です。 それは、『国歌大観』もありますよ。『日本国語大辞典』もある。『国史大辞典』もある。あまり大きくない辞書としては、『言海』『岩波古語辞典』『基本季語五〇〇選』『歌ことば歌枕大辞典』なんかも名作だと思う。よく使います。 でも、最初に出逢ったときの感動というか、うれしさというか、これはありがたいという感激からいえば、『歌舞伎人名辞典』なんだなあ。 何しろ、あれは同姓同名の人がたくさんいる世界でしょう。人名辞典はぜったい必要なのに、ちゃんとしたものはこの一冊しかないんですね。俳優協会が毎年出している『歌舞伎手帖』というのはあるけれど、これは現存の役者だけだから、調べものにはほとんど役に立たない。たとえば谷崎潤一郎が大正何年に書いた随筆に沢村源之助という役者が出てくる。これは三代目か四代目かなんてことを調べるための辞典は……、まあ『国史大辞典』に載ってないこともないのだけれど、『歌舞伎人名辞典』ほど詳しくはないのです。 今出版社の名前を失念してしまいましたが、もう絶版になってるんじゃないかなあ。古書店で見つけたら是非買おうと思いつつ、図書館で使っています。どうもワープロ原稿をそのまま刷ったのではないかと思わせるほど本文の活字がいがいがで、どうも本そのものの造作はきれいとは言いがたいのですが、とにかくこれは重宝する。 たとえば嵐寛寿郎。『鞍馬天狗』で有名なこの人は嵐璃寛の縁者で、本来なら嵐の名跡を継いでもおかしくないほどの家柄だったなんて御存知でしたか。片岡千恵蔵が十一代目片岡仁左衛門の弟子で片岡少年歌舞伎の出身だったなんて、ぼくはこの辞書ではじめて知りました。いったいに大名跡だけではなくて、かなり下のほうの、しかし江戸時代からある名前については極力採録するというのが『歌舞伎人名辞典』の方針のようで、これはたいへんにありがたい。(ぱらぱらめくっていると、空いている名跡っていうのはたくさんあるんだなあ、と感心してしまいます。) むろん注文はいろいろありますよ。江戸時代の原文献をもうすこしたくさん引用してもらえるとありがたい。専門の人はあの記述でももとの文献にたどりつけるかもしれないけれど、ちょっとわれわれでは無理な気がしますね。それから、役種についての記述が全体的に手薄です。二枚目とか、座頭とか、敵役とか、これは歌舞伎役者を考えるうえで重要な要素ですから、もっと熱心に書いていいと思う。同じく、特に現行の演目を初演した場合の注記ももっと豊富に入れたほうがいいでしょう。歌舞伎の脚本は基本的にその役者にはめて書きおろすものですから、残された戯曲の解釈を行ううえでこの情報は重要です。そして役種から検索できる索引のようなものがつくと、たいへん便利だと思います。 しかし、改善点はいくつかあるにしても、この本がとても便利で立派であることは疑いを入れません。名著とは言えないにしても、発想と内容は格段にすぐれた辞典だと思う。世の中には歌舞伎学者という人種が大勢いるはずなのに、どうしてこういう本を作ろうと、もしくは改訂しようとしないんでしょうね。まことに疑問です。 しかもこの辞典は読んでいておもしろい。知っている役者を引いていろいろ考えこむのもいいし、その先代、先々代、先々々代と興に従ってページをめくっていると、江戸時代の芝居見物にまぎれたような、何ともいえないのんびりした気分になってくる。時にはあそこの家の次男坊にこの名跡を継がせるのはどうだろうと勝手に思ってみたり、さまざまに空想を呼ぶところがたのしい。……こういう辞書は、だいたいよくできた辞書なんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月09日 12時03分18秒
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