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傍からぼんやり見ているだけなら、女の子の浴衣は華やかで、艶っぽくて、たいへん結構なものですが、しかしあれを実際に着るほうはなかなかしんどいことだろうと、夏場になるといつも同情します。何しろ、あれだけ帯や紐で体中を締めつけるのですから、さぞかし暑苦しいに違いありますまい。男の着物は、腰紐や伊達締などというめんどくさいものを使わずに、帯一本で着られてしまうだけに、何だか女の人に対してどうにも申しわけない気分でいっぱいになります。 女の人の着物はかならず身丈より長くつくってあって、胸の下でたくしあげて着るようにしてあります。いわゆるお端折というのがこれで、このために女物はどうやっても帯のほかに腰紐を二三本使わなければ着られないようになっているのですが、これは江戸時代中期の風で、本来庶民の衣類は江戸初期ごろまで女も対丈(男物のように足首までの丈の着物)で仕立てていたといいます。次第に衣類に贅をこらす風潮が起るようになって、武家方や身分のある町人のあいだで表着の裾を長く引きずる着物がはやり、そのままで表に出かけるのは不便ですから、外出のときには裾に引いている分を腰でをたくしあげる恰好が生れました。これが外出の際のかたちのままに固定してしまったのが今の女物ですが、現在でも歌舞伎に出てくる御殿女中や片はずしの役は、屋内では裾を引き、外ではお端折をするというように、二つのかたちをきちんと使いわけています。 お端折を作るにつれて、帯も幅を広く、生地に厚みをもたせて仕立てることがはやりますが、今のような暑苦しい着付が特に盛んになったのは大正ごろからだと言われています。現在ではふつう、女物の帯は胸のすぐ下(アンダー・バストのところ)で締めますが、江戸時代の女の人はもっと下のほうで帯を締めていました。年齢が上がるにつれて次第に締める位置が下にさがっていったようですが(この区別も歌舞伎の着付ではきちんと守られています)、このころの女の人は今のような下着をつけてはいませんから、帯をあまり上で締めてしまうと裾が乱れやすくなって、不便だったのでしょう。胸のすぐ下で締めるようになったのは、女の人の下着の事情が変ったことが預って大きいといえます。もっともどちらで帯を締めるのが苦しいかといえば、言うまでもなく今の締めかたのほうで、あれでは胸も押されるし、胃のあたりが締められてしまいます。 だいたいが、着付というものが特別扱いされるようになってからの着物の着ようは、見栄ばかりを気にして体に負担がかかりすぎるものになってしまったような気がします。帯板や帯枕のようなものを使ってまでかたちをととのえようとしたり、襟のあわせをいやにきつくしたり、何本も紐を使って体をぐるぐる巻きにしたり、たしかに見た目はすっきりとしていますが、それだけにどこか妙に官僚的な感じがして、若い娘さんまで玄人女みたいに見えるし、だらしのない色気というものがなくなってしまった気がします。しかも着ている人がつらいというのではどうにもならない。 四代目沢村源之助という人は、明治末期に活躍した女形で、悪婆ものや妖婦ものをさせたらば右に出る者がいないと言われた名人ですが、この人は衣装に紐や糸をあまり使わずにずくずくに着付けるのが好きだったそうで、弟子がちょっときつく帯を締めても、「馬鹿野郎、俵じゃねえんだ」と怒ったという話が伝っています。今の着付を源之助が見たらいったいどう言うことか……。「俵じゃねえんだ」というのは、もちろん締めつける着付がきらいだったということもあるのでしょうが、男を悪の道に誘いこむ悪婆役者としてはきっちりしすぎた着付では色気がなさすぎるということもあったのでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月09日 12時02分41秒
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