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おっとりとした、ときに退屈でさえある歌のなかから、何だかわけのわからないふしぎなものがこんこんと涌いてくる気配がする。後鳥羽院のこの歌が持っているのは、そんな魅力なのではないでしょうか。定家の歌は、たしかに院のそれよりも繊細で、巧緻で、一分の隙もないけれど、しかし奥深いところから何かが生れてくるという予感を感じることはありません。言葉が言葉のなかで完結してしまっている。もちろん定家の歌は、その言葉が言葉で完結するというところに、ほかの歌人では到底かなわない玲瓏たる世界が生れてくるのですが、しかしそれだけにかえってときどき歌というものを狭苦しく感じさせる部分がある。言葉が言葉の外側へとひろがってゆく快さのようなものは、院の歌だけが持つ魅力です。 院が歌のすがたについて、高体、痩体、艶体という三つの風を考えていたらしいことはすでに「葛城や」の歌のくだりで触れました。三体の歌風は批評家としての院を特徴づける創見ですが、こうした歌体論を思いついた背景には、日ごろ彼が俊成、定家とみずからの作風を対比的にとらえていたことが影響しているのではないでしょうか。痩体はおそらく俊成(先に掲げた院、定家の歌と三幅対にするならば「思ひあまりそなたの空をながむれは霞を分けて春雨ぞ降る」)の、艶体は定家の、そして高体は院自身の歌風を、抽象化して言ったもののように思われます。 しかも高痩艶の三体は『新古今』のなかで正三角形を成して鼎立しているわけではありません。痩体と艶体が比較的近い距離にあるのに対して、高体と痩体、高体と艶体のあいだにはかなり大きな断絶がある。俊成と定家は近いが、彼らと後鳥羽院は本質的に別なものなのです。それがたとえば「言葉が言葉の外側へとひろがってゆく快さ」ということであり、「何だかわけのわからないふしぎなものがこんこんと涌いてくる」ということであって、俊成や定家の歌が純粋にすぐれた詩であるのに対して、院の歌には詩以上の何かが含まれています。 そのことを考えるには、すこしまわり道をしなければならないようです。 和歌は本来、呪術の具でした。神や天地に祈るために日常の語とは異った韻律や修辞を与えられたとなえごとが、長い時間をかけて洗練され、次第に純粋な詩へと発展していったのです。中世にいたるまで、神仏が和歌によってお告げをしただとか、名歌の功徳によって大雨が降ったとか、歌のちからによって種々の利益を授かったとか、所謂歌徳説話の類がさかんに信じられていたのも、おそらくはこうした古い信仰の名残なのでしょう。『万葉集』や代々の勅撰集に見られるように、天皇がさかんに歌を詠んだのはこうした和歌の呪術性に関係があります。古代社会の王は国家を代表して祭祀を行う神官としての性格をつよく持っていましたから、歌に秀でた王は天地の恵みをより多く引きだす呪力を持った神官であり、したがってまた名君であるということにもなるのです。 天地の恵みとは何か。第一にはその年の豊穣です。歌道において四季の歌と恋歌がこと重視されるのはそのためです。四季の歌を詠むことによって季節の循環が自然に行われることを祈り、恋の歌を詠むことによってこのように作物も豊かに繁殖してほしいという願いをこめる(人間の恋によって豊作を祈る風習はひろく世界中に見られます)。 祈祷の際には神や天地にお世辞をいって褒めたたえ、機嫌をよくしてもらってすこしでもたくさんの恵みを得ようとするのが常ですから、そこから祝言のこころが生れてきます。ありうべき理想のさまを言葉によってあらわし、現実もそのとおりになれと祈るための言葉が呪詞であってみれば、不景気で暗い後向きのとなえごとなどありえない。対象を肯定し、祝福することが何より大事です。また、本来がおまじないのための呪文なのだから、何もむずかしいことをごちゃごちゃと言う必要はなく、「ちちんぷぷい、痛いの痛いの飛んでゆけー」同様、むしろ単純で、あかるくて、華やかなしらべであることが呪詞の本質であるといえます。言葉によってふしぎを行うのですから、単純明快にして派手でちからづよくなければその役割ははたせないのです。 もちろんいくら鎌倉時代のはじめといっても、後鳥羽院が本気で歌の呪力などというものを信じていたとは思われません。ですが、歌の呪力に期待する態度は天皇たちにとってもはや習性になっていました。和歌に対する民俗学的な信仰が伏流水のようになって無意識の層にしみつき、歌を詠むといえばそうした態度を取ることがふつうになっていたのです。そのうえ後鳥羽院はみずから歌道を学ぶうちに、俊成や定家のような職業的歌人の歌風とは違ったこうした歌風にひとつの美を見出したのではないでしょうか。繊細さや巧緻さだけが歌なのではなく、一見鷹揚かつ退屈でありながらおっとりしたしらべの内側にすべてを祝福する豊かな情感をともなった歌風を、院は意識して求めていたのだと思います。言葉のなかから、何とはなしのめでたさがこぼれてくるような風情。彼が高体という言葉によって言おうとした和歌の美はそういうものなのではないでしょうか。 たとえばお正月に飾る繭玉というものがあります。紅白に染めた蚕の繭を花のように柳の枝に付けたものですが、あれを見るときのわたしたちの心には、純粋に美しいと感じる気分と、お正月らしいめでたさでうれしくなる気分とがある。しかもそうした二つの気分はどっちがどっちとはっきり区分できるようなものではなくて、あいまいに入りまじりながら互いに相手をいっそう引立てあうような関係になっています。後鳥羽院の歌を読むときの心のはたらきがまさしくこれで、俊成や定家の歌に純粋に美しいと感じる部分しかないのに比べて、院の歌は詩とはいいがたい夾雑物がたくさん含まれているのですが、それだけに「言葉が言葉の外側へとひろがってゆく快さ」を持っている。言っていることは単純なのですが、その詞の一つ一つがおっとりとした祝言のこころにくるまれて読者のもとに届けられるために、歌に何ともいえない味いが生れてくるのです。 冒頭でも述べたように、この一首は俊成に対しておめでとうを言うための歌です。そこからしてすでに祝言のこころがあるわけですが、しかしこの歌の祝言性は俊成という固有名詞を持つ場にのみにかぎられるものではありません。俊成九十賀云々という詞書がなくったって、「ながながし日もあかぬ」のが俊成のことだとわからなくたって、ちゃんとこの歌は祝言の歌になっている。どこがどうとこまかく指摘することはむずかしいでしょうが、一首を読めばだれしもが何となくめでたい感じを受けるようなしらべを持っていて、たとえばこれを詠んで読者の気持が落込むなどということは決してありえない。むしろ春の陽気に浮かれて遠出をしたくなるような、うきうきした気分に満ちている。春が来て、桜が咲いて、ともかくもそれはいいことだなあ、という歌人の鷹揚な喜び。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月16日 16時14分03秒
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