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雪香楼箚記

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アンスカ国文学会


2006年09月26日
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カテゴリ:カテゴリ未分類



 小泉純一郎という人物を政権の座につかせたものがいったい何であったのか、今となってはそれを記憶にとどめている人は多くないだろう。それは、ごく曖昧にメディアのちからであるとか、国民的な人気といったものではない。もっと直接的な、しかし同時に偶発的でもある、世の中の流れであった。
 小泉自身がどれほど実感しているかどうかはわからないが、彼が総理大臣になれたのは一にも二にも森喜朗という人のおかげだった。もし森喜朗が政権の座になかったとしたら、小泉はおそらく現在の地位を得ることはなかったのではないか。
 ワイド・ショーというものが政治の世界を取りあつかうようになったのがいつごろのことなのか、はっきりと覚えていない。だがすくなくとも小渕内閣のある時期までは、政治はワイド・ショーの話題ではなかった。世相がよくなかったこともある。不景気のどん底で、明るい話題がなかった。そういう時期に政治家をテレビで映しても話が暗くなるだけだったし、そうかといって無内容でも何でも景気のいい脳天気な政治家というものもいなかった。第一小渕という人自身があまりテレビ向きの人ではなかったのだ。
 そのなかで唯一気を吐いていたのが田中真紀子だった。テレビにうつって、おもしろく、視聴率を取れる政治家――しかもワイド・ショーの知的レベルで理解可能な、言いかえれば所詮床屋政談か井戸端会議程度のことしか言わない政治家――はこの人ひとりだったから、ごく稀にワイド・ショーに政治家が登場するとすればそれは大半の場合、田中真紀子であった。
 テレビというのは、それに取りあげられない人は永遠に無名のままだが、一度それに取りあげられた人は乗数的に知名度が高くなってゆくという傾向を持ったメディアである。特にワイド・ショーの番組づくりは、一から何かを説明するという遠回しなことをなるだけさけ、「毎度おなじみの」という話の切口で視聴者をつなぎとめようとする。すこしでもテレビに出たことのある人物がいれば、それがその分野を代表する者であるかのようにして扱われ、便利づかいされて、いつの間にか異様な知名度を持つようになってしまうのだ。そしてテレビはその知名度を「人気」であると視聴者に説明する。実際には、テレビが意図的に(あるいは無考えに)その人物を何度も露出させ、それを視聴者が無批判に見、そこに視聴率が生れるに過ぎないとしても……。
 こうして田中真紀子という類稀なるキャラクターがテレビのなかで加速的な知名度を持ちはじめるなかで、小渕が亡くなり、その後継内閣として森喜朗という男が総理大臣になった。このときすでにワイド・ショーは政治がそれなりに視聴者に訴える話題であることに気づいていたらしく、田中真紀子を媒介としてそれ以外の政治家あるいは政治の世界を徐々に扱うようになりはじめていた。そこにあらわれたのが森喜朗という、これもまた類稀としか言いようのないキャラクターの持主である。
 歴代の総理大臣には碌でもない人もいた。政治的な立場を別にしても、身辺不潔とか、品性下劣とか、あからさまにおかしな連中だって時の権力バランスによって総理大臣になったこともある。しかし森喜朗ほどレベルの低い総理大臣は……、すくなくとも戦後はじめてだったのではないか。政策を理解しない。失言をする。今どき考えられないようなものの見方を臆面もなく口にする。それを指摘されると子供のような腹の立てかたをする。たしかにメディアとの関係がこじれて意図的にそういう面が強調されたところがあったのかもしれないが、実際のところここまではっきりと救いがたいアホが一国の最高権力者になった例はおそらく彼が空前絶後であったこともまた事実である。ひと言でいうと、あれは志村けん的バカ殿が現実世界に抜けだしてきたような存在だったのだ。
 田中真紀子によって政治に目覚めたワイド・ショーが、このおもしろさに無関心であるはずがない。しかも森喜朗という人はあまりにレベルの低い部分において政治家としての資質を欠いていた。これがワイド・ショーが批判するにはちょうどいい対象だったのだ。特に政権末期のころのワイド・ショーの特集ぶりは、今でも記憶に残っているが、これがほんとうにあのワイド・ショーかと思うほど硬派な(すくなくとも見た目は硬派な)印象で、とにかくいかに森喜朗が総理大臣には向いていないかということを延々と繰りかえしていた。
 小泉純一郎が総理の座についたのは、確かに彼が国民的な人気を得たからである。また小泉という男は大衆の人気を得ることがうまかった。そういう意味では一種のポピュリストであったともいえる。だが、国民的な人気を得たがゆえに小泉が総理大臣になれたのかといえば、かならずしも理由はそれだけとはいえない。そこには「国民的な人気のある者が総理になれる」という潮流があった。その潮目があるところに、小泉が出てきたから、彼は総理大臣になれたのである。
 そして「国民的な人気のある者が総理になれる」という雰囲気を、ちょうど森政権の末期のころにかけてつくりあげたのはテレビ、ことにワイド・ショーのちからだった。それはつまり今まで政治に対して無関心であった人びとが政治に関心を持ちはじめたことを意味している。ワイド・ショーの視聴者が政治的市民として開拓されたのだ、といえば耳にはよく聞こえるが、実情はけっしてそれほど高級なものではない。ワイド・ショーは田中真紀子によって政治家にもおもしろい(ワイド・ショー的に、野次馬ふうに)キャラクターがいることに気づき、森喜朗によって田中真紀子がからまなくても政治というものはおもしろいのだと自信を深めた。
 その先にあるものは何か。すでにして政治がワイド・ショーの重大な要素である以上、次の政権においてもその前提がくつがえされてはならない。見栄えのする、おもしろい人物が総理大臣になってほしい。国民的な人気を持つものが総理になることを望んでいるのは、何も自民党だけではない。テレビの側だってそうなのだ。その暗黙の了解が、小泉や安倍を総理の座に押しあげたのではないか。
 そしてその背後にあって、こうした気運にお墨付きを与えたのはワイド・ショーの視聴者たちである。右のような暗黙の了解を、ワイド・ショーは決して自分たちの本音として語ることはない。「今の森さんのような総理大臣では困りますね」とコメントし、小泉の映像を流す。小泉に人気がついてくると「小泉人気は各地でどんどんもりあがっています」と特集を組む。いつの間にか、巧妙に、それは議論の前提、全体的な風潮、国民のなんとはなしの合意として洗練され、何気なく番組のなかで「紹介」されるようになってゆくのである。そしてその「紹介」というかたちに視聴者は満足する。自分たちが何となく思っていることに明確なかたちが与えられたからである。
 この点についてワイド・ショーの視聴者たちは大いに反省しなければならない。彼らはたしかにテレビによって政治的市民として開拓された。しかしその開拓は、けっきょくのところ野次馬以上の何ものでもなかった。重要なのは小泉の髪型であり、安倍の好むアイスクリームの話であって、彼らの政策や政治的スタンスではない。たしかにワイド・ショーがそうしたものを取りあげることを避けた点はある。しかし「開拓」されたはずの視聴者が、それではワイド・ショーよりもうひとつ上の段階へ自主的に進んでみようとすることがあっただろうか? その自主性が見られないかぎり、彼らは政治的「市民」であるとは決して言えないだろう。しかし厄介なことに、ワイド・ショーの視聴者たちは、そうした点についてきわめて無自覚である。それどころか、その野次馬根性によって自分たちはいっぱしの政治的意見の持主であると勘違いしている。
 この国を亡ぼすものはワイド・ショーか。ワイド・ショーの視聴者か。





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最終更新日  2006年09月26日 09時26分34秒
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