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雪香楼箚記

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アンスカ国文学会


2006年10月24日
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カテゴリ:カテゴリ未分類



 キリスト教の葬式というものに出た。
 あれはたいへんなものですね。始終幕なくだれかが何かを読んでいる。神父さんが聖書の一節を読む。参加者がそれを唱和する。祈祷書の一節をかけあいで読む。詩編を読む。説教をする。ものを読んでいないのは祈るときと歌うときぐらいだが、祈るといってもあれはちょっと間を置いてアーメンと唱えるだけだし、歌うといってもつまりは賛美歌や聖歌の歌詞を音程に乗せて読んでいるわけだから、けっきょくいつでもだれかが何かを読んでいるのである。まさしく「はじめにことばありき」の世界。
 当然、あの宗教の儀式に参加するには本がたくさん必要になる。新旧の聖書は言うまでもないが、祈祷書(典礼の文章を書いてある。信徒が唱えるところはゴチックになっていて、横書きなのを別にすれば読みやすく編纂してある)と聖歌集はどうしても要る。もっとも葬式には信者以外の人がたくさん参加するから、それ用の典礼文集が特別につくってあって、これ一冊あればどうになかるようにはなっているのだが。
 要するにキリスト教というのは言葉の宗教であるとまとめることができるのかもしれなくて、もしこの宗教にあって文盲であったとしたら……、たいへんでしょうねえ(しかし実際のことをいうと、日本人の識字率はイギリス、アメリカ、フランスそのほか欧米のキリスト教国に比べると大半の場合それを上回っている)。中世のころは聖書がラテン語で書かれていて、そのうえ印刷技術が発展していないから聖書そのものがごくかぎられた一部の人のみの持つものであった。言うまでもなく、教会に通う庶民の多くは聖書を読むという行為を知らないままに一生を終え、賛美歌を歌ったり、典礼の文言(きっとごく短い部分だけ)を空で唱和したりするくらいだっただろう。つまり信徒の大半は聖書について文盲であったわけだ。中世キリスト教世界において、神父の説教が重視されたのは、こういう事情が与って大きかったにちがいない。
 プロテスタントという宗派が生れ、教会を介さず、個人が神と直接に対するというキリスト教が生れたのにはさまざまな理由があるのだが、その一つにこうした聖書及び言葉の問題がある。ルネサンス期にはダンテに代表されるように、それまでヨーロッパ世界の共通言語であったラテン語を離れ、各地の方言――たとえばイタリア語、フランス語、英語――によって文筆を行う風習が生れ、他方でグーテンベルクによって活版印刷の技術が飛躍的に普及した。この二つの潮流によって、聖書をその土地の言葉に翻訳し、印刷によって大量に発行することで、一人が一冊、あるいは一家に一冊、聖書を持つという状況が現出したのである。
 聖書というのは、要するに神と人間との契約書である。契約書であるから言葉で書いてある(口約束ではないからありがたみがあるのだろう)。ところが、その契約書のコピーをたくさんつくることができず、しかもそれがむずかしいラテン語によって書かれていた時代にあっては、個人ごとに神さまと契約を結ぶことがむずかしい。だから神父あるいはその親玉である法王が、人類の代理人として神さまと契約をしてくれた。いわば天国行団体旅行の旅行代理店が教会だったのである。プロテスタントが生れた時代はそうではない。まず契約書はわれわれが日常使う言語で書いてある。日本人なら日本語である。そして聖書はいくらでも印刷してあって、だれでも一冊ずつ持つことができる(慈善団体がただで配っている。ホテルにも置いてある)。つまり自分の責任で、自分一人が神さまと契約することができるのであって、代理店を介する必要はちっともない。
 たぶんそこを突きつめてゆくと、言語を駆使することが人間存在の根本であるというヨーロッパ的な発想にゆきつくのだろうが、それはまた次の機会に。





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最終更新日  2006年10月25日 09時55分08秒
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