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3 この小説のなかに描かれてゐるものは何なのだらう。『ひとびとの跫音』。その題名が指し示してゐるやうに、ここにあるものはごく平凡な市井のひとびとが歩んでゆく跫音であると言へないだらうか。決して劇的な存在などではなくて、生涯と言ふよりは日常を生きたと表現するのが相応しいやうなひとびとが、人生といふ道程を歩んでゆく跫音。あるいはその人格の持つてゐる風韻と言つてもいい。このなかで語られてゐるのはさういふものである。 そして先に述べたやうに歴史とは人生の群れであり、我々の無知を補ふために過去の人生に学ぶための装置、あるいはそこから今我々が生きてゆくための勇気を得るための機構だとすれば、『ひとびとの跫音』のなかで触れられてゐる数多くのひとびとの風韻こそ歴史といふものに相違あるまい。読者がこの小説を手にするとき目にするのは一陣の涼風のやうにさはやかな人間の風韻であり、そこから「世の中にはこんなに素晴しい人間がゐたのか」といふ感銘を受けるのである。そしてそれを一服の清涼剤のやうにして心に染みこませて、これから我々が生きてゆく上での糧にしてゆくのだ。むろん糧にすると言つても、「人間は、忠三郎のやうな賢愚定かならざる大度の君子人にあらざるべからず」といつたふうな道学的な読み方のことを指してゐるのではない。それはごく控へめに、しかしながら充分雄弁に人生の叡智と勇気を語りかけ、ささやかではあるが読者を幸福な気持へと誘つてくれるのである。「ああ、かういふいい人がゐたといふことを知つただけでも、人間として生きてゆくことが嬉しく感ぜられる」、さういふ気分になることにほかならない。そしてそれこそが歴史の効用なのではないだらうか。 正岡忠三郎やぬやま・ひろしといつた人格から湧きおこる涼風。それらをしつかりと書き留め、記録しようといふ司馬遼太郎の態度こそ、未来の人間に対して歴史を伝へようとする史家のそれにほかならないのである。繰り返しにはなるが、歴史とは年号や、記号的な人名、過去の事実の羅列ではない。それは大きな時のうねりのなかに捉へられた人生の群れであり、我々が生きてゆく上での叡智と勇気を得るための見本市なのだ。あるいは人間の資料室であると言ふこともできるだらう。いづれにしろ歴史とは、今生きてゐる我々に関りあひつつ影響を与へ、有機的に結びついてこそ歴史なのである。それが人間の見本市、あるいは資料室である限り、入口を閉ざして(無味乾燥ないはゆる歴史と称するものの仮面をかけて)ゐては何の意味も持たない。後世に生きるひとびとが歴史のなかに含まれる人間と触れあつてこそ、はじめて意味を持ち得るのだ。しかしそれでは過去の人間が我々と有機的に結びつく場合、もつとも媒介として相応しいのは何か。これこそすなはち、その人間が持つてゐる風韻である。正岡忠三郎やぬやま・ひろしのやうに何の劇的な事績をも持たない歴史上の人間であつたとしても読者に感銘を与へるのは、その人間が成し遂げたことではなくその人間がどんな人物であつたかによつて我々が影響を受けるからにほかならない。 司馬遼太郎はこの間の事情をよく知つてゐたからこそ、彼らのやうなごく普通の市井人を取上げたのである。竜馬や信長の劇的な人生によつて生きる勇気を奮ひ起し、進むべき道筋を照らすのは決して間違つた行為ではない。しかしさういふ人物たちだけが後世に影響を与へ得る歴史といふものなかと考へるのならばそれは大いなる誤りであつて、例へば正岡忠三郎やぬやま・ひろしのやうなひとびともまた彼らと何ら変るところのない歴史そのものにほかならないだらう。『ひとびとの跫音』の登場人物たちは、歴史上の事績といふ点においては竜馬や信長とは比較にはならないが、人間的な風韻といふ面においては決してひけを取りはしないのだから。静かな跫音を立てながら人生を歩んでいつたかうしたひとびとを前にするとき司馬遼太郎自身が感じた人間の風韻。「こんな人間が世の中にはゐるのか」といふ思ひ。そしてそれを一個の人間が私有するのは忍びないといふ意識。この小説のすべてはそこから始るのである。 時間とは忘却にほかならない。それが自然の理であるからだ。そして人間がその自然の理に逆つてまでも歴史といふ記録を残さうとするのは「こんな素晴しい人間のことを忘れ去つてしまふのは惜しい。きちんと後世に伝へれば人類に人生上の叡智と勇気を与へてくれるかけがへのない財産になるはずだ」といふ考へからであり、自分が感銘を受けた人間の風韻を後世に伝へたいと思ふからであるだらう。さういふ意味において、この小説は歴史そのものにほかならないのだ。ここにあるのは、歴史であり、人間の風韻であり、そしてひとびとの跫音である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年12月25日 09時07分02秒
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