全集の都合
全集というのは意外に使い勝手が悪いものです。 もっとも、近ごろ流行の著作物がぜんぶ入っているわけではないのに麗々しく「全集」などと銘打って売出す書物――多く出版社の経営的事情による――なぞはまったくもって論外。あれはやはり名に偽りなく「撰集」か「作品集成」か「著作集」にしてほしいね。不便云々以前の問題だ。 たとえば、「鏡花全集」で『瀧の白糸』を読もうとします。そうすると、まず数ある全集の巻のなかから、どこに『瀧の白糸』が入っているかを捜さなくてはならない。これが意外と手間取るんですね。小説、随筆、評論なんてふうに分野別にしてある全集が割と多いようですが、多作の人になると、小説の巻のなかのどこにお目当ての作品があるのかすぐにはわからない。 しかもわるいことに、あれはたいてい発表順に並べてあるでしょう。おおよその検討はついてもきっちりと何と何のあいだに『瀧の白糸』がはさまっているなんてことは、鏡花の専門家でないかぎりわかるはずがない。そこで、目当ての巻を一々繰ってさがすのですが、これがけっこう面倒くさいものなのですね。途中で飽きてきて、やっぱり読まなくてもいいか、というような気になってくる。 あれは、何のことはない、いちばん最初か最後の巻に、収録作品の目録と五十音順の作品名索引を付ければいいだけの話なのですが、その手間をどの出版社も嫌がる。ちゃんとやらないから、たった一つの小説を捜すために、全集をひっくり返すような騒ぎになるわけです。 あるいは、これはときどきやっている全集もあるのだけれど、どうして背表紙に「小説」とか「評論」とかの字を入れないのでしょう。書いてあればおおよその目安がついてたいへん使い勝手がいいのですが、デザインの関係なのか何なのか、ただ「何某全集 第何巻」としかしていない全集が多すぎる。 索引のない全集。これも困る。ことに文学全集の類はいいとして、学者の著作集で索引がないものはたいへんに不便です。五十音順になっていない電話帳みたいなもので、せっかくの全集の価値が半減してしまう。 どうも、ごく一部の例外を除けば、全集というのは不便にできていてあたりまえという意識があるのか、それともあれは棚に飾っておいて手には取らないというのが国民的な合意になっているのか、とにかくこちらが値段相応に期待する使い勝手ということを出版社の側ではちっとも考えていないらしい。少し使う側の身になって考えればわかることなのですが……。 もっとも、いい全集もたくさんありますよ。岩波の『漱石全集』。その索引の完備ぶりは全集の規範といってもいいでしょう。筑摩の『本居宣長全集』。だいたい筑摩の全集は立派な本が多いけれど、これは特に作りがいい。便利かといわれるとそれほど便利でもないような気がしますが、よく考えてみると宣長の全集を出すというだけでこれはずいぶん世の中を便利にする行為であるともいえます。 中央公論社の『折口信夫全集』。最新版のやつです。活字の置きかたがよくなってすばらしく読みやすくなった。索引に一巻をあてて完備していますし、背表紙にその巻の代表的な論文の名前が入っています。内容の大まかな目録は各巻に載せてあって、捜しものにはたいへん便利。よく使うので褒めるわけではないですが、新しい全集の傑作のひとつだと思う。