小説「ライラックのころ」第一章~であい~
第一章 ~であい~――彼女と出逢ったのは、十七年前・・・秋も終わりに近づいた頃だった。何の気無しに母校を訪ねてみたくなり、僕は急ぎ足で、懐かしい高校の校舎を目指した。母校を訪れるのは、昨年の五月以来だ。――学生時代の僕は文芸部所属で、詩の世界に取り憑かれたように、言葉のひとひらが織りなすリズムに夢中になっていた。顧問であり、高校時代の担任であった園部先生には、「葛城は歌を書いたらいい」と言われ、それが、僕が作曲を始めるきっかけになったのだった。三年間通っていたあの校舎は、少し古ぼけてはいるが、当時とあまり変わらず、そこに佇んでいた。放課後の校庭からは、運動部の威勢の良い声が聞こえてくる。あの頃、毎朝自転車で上っていた坂を、一歩一歩踏みしめるように上る。当時は毎日、友達と並んでこの坂を上っていたことを思い出しながら。校舎に入り、生徒達や出会った先生方に会釈しながら、僕は文芸部の部室を目指す。廊下を歩いていると、校舎の独特の匂いや、柔らかな色合いの壁など、感じるもの全てがとても懐かしく思えた。目新しいポスターの貼られた掲示板も、当時の色を留めている。部室のすぐ近くまで来ると、園部先生の話す声が聞こえた。部室の前に、卒業生だろうか、白いワンピースを着た若い女性が立っている。母校で卒業生に会うとは珍しいなと思い、僕は部室へと進んだ。「・・・葛城!」園部先生が僕に気付く。と、女性もこちらに振り返った。「お久しぶりです、園部先生」僕がそう言って目線を落とすと、女性と目が合った。彼女はどきっとしたように目を見開いて、さっと目を逸らした。彼女が僕にどんな第一印象を抱いたかは定かではないが、僕は何も言わずに笑ってみせた。僕の事を知らない部員達がざわついているところに、園部先生は、「ほら、お前達の先輩だ。葛城 勉、十年前の教え子だよ」昔と変わらないハキハキとした声で、そう僕を紹介する。男子部員は学生当時から少なかったので、部員達の驚く顔も特別珍しいものとは感じなかった。部員達は会釈して、「よろしくお願いします」と控えめに挨拶した。僕も同じように、「よろしく」と会釈して返す。と、園部先生は女性の肩をぽんと押し、「ほら、自己紹介しないのかい?」と促した。女性は目を合わせないまま、顔を真っ赤に紅潮させて、「あっ、あの・・・米山律子・・・です・・・」か細い声で言い切り、俯いた。照れくさそうにぎこちなく礼をして、彼女は黙りこくった。僕は、「葛城 勉です、よろしく」と彼女と握手を交わした。すると、彼女はおろおろして、「あ、あ、よろし・・・・・・わっ、私、外の空気を・・・」と、大慌てで僕を振り切り、早足で去って行った。その様子を見て、園部先生はやれやれといった感じでため息をついた。「あの子は本当に照れ屋だねぇ・・・。葛城、気にするな」そうは言われても、僕は彼女――リツコが気になって仕方がなかった。と、園部先生は、「・・・おや、もしかして気になるのかい?」と僕にけしかけてきた。僕が何も言えずにいると、「リツコちゃんは学生時代、すごい人気者でね・・・男子にもよく声をかけられてたんだけど・・・」・・・そこまで言って、園部先生は、ふうと大きくため息をついて、「あの子、男性が苦手で、まともに喋ることもできやしない・・・。」と呆れ顔で言った。そうとは知らずに申し訳ないことをしたな、と思ったが、僕はどうしても彼女のことが気になった。どうしてこんなに気になってしまうのか、自分でもわからないほどだった。「彼女は今、何をされている方なんですか?」僕は園部先生にそう問い掛けた。「今は音大に通っているそうだよ。・・・確か、声楽を専攻しているって」「声楽、ですか?」「ああ、歌のうまい子でね・・・将来は歌手になるのが夢だって」声楽。そう聞いて僕は、彼女の後を追った。「葛城?」先生の声も、耳に入らなかった。――しかし、彼女がどこに行ったのかはわからない。もう帰ってしまっただろうか。中庭へ向かってみよう。そう思って踊り場へ出ると、彼女は壁にもたれ掛かっていた。僕の顔を見てびっくりしている様子の彼女に、慌てて説明をする。「あの・・・園部先生からお話を聞いて・・・声楽を専攻していらっしゃるって、聞いたんですけど・・・」「えっ、あ・・・はいっ」うろたえたように彼女が返事する。僕はさらに続けて、「リツコさん・・・でしたよね」「は、はいっ」あまり深く考えたわけではなかった。今思えば、口から出まかせだったような気もする。ただ僕は、彼女と会う口実が欲しかっただけなのかもしれない。「あの、僕・・・市内のバーでピアノを弾いているんですけど・・・」「はい・・・」「僕の作った歌を、歌ってくれませんか?」その瞬間は、正直自分が何を言ったかよくわからなかった。もちろん嘘ではなかった。自分の曲を歌ってくれる女性を探していたのは事実だ。でもこんな突然の話を聞いてくれるなんて虫の良い話もないだろうと思っていた。彼女は目をぱちくりさせて、しばらく言葉を探している様子だった。そして、「はい・・・」と、小さな声で返した。僕が次の言葉を探している間も、彼女は目を合わせられず、視線をきょろきょろと泳がせていた。「一度、バーに来て見て欲しいのですが、いいですか?」「えっと・・・」僕は彼女の返答を待った。「友達と一緒でも・・・いいですか?」「ええ、構いませんよ」「それなら・・・」「ありがとうございます!」その時、僕はどんな表情だっただろう。単純に、自分の歌を歌ってくれる人が見つかった、その時はそればかりが胸にあった。僕はメモにバーの名前と、バーまでの簡単な地図、そして僕の住所と名前、電話番号を書いて彼女に渡した。それを受け取って、彼女は深々と礼をして、その場をあとにした。思えばあの時、よく自分にあれほどの勇気があったなと思う。あれがリツコとの出逢いだった。あれが僕の、初めての恋だった。 つづく