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2012年08月18日
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カテゴリ:旅日記(中国)
中興堂の中におわすのは、釈迦如来様。


         山口・興隆寺27


 【山口市指定有形文化財 木造釈迦如来坐像

  この仏像は大内氏の氏寺として栄えた興隆寺の本尊である。檜材の寄木造りで、
  像の高さは112.2センチで、その下に121センチの蓮華座がある。面長な顔の輪郭、
  引き締まった顔の肉取り、ややつり上がった瞼の切れ込み、衲衣と裳の強い襞の表現には
  仏師の慶派の伝統的な技法が認められる。作風などから南北朝時代の作と思われる。

  興隆寺は寺伝によると613年大内氏の祖琳聖太子が創建したと伝えられる古寺である。
  興国2年(1341)に放火によって興隆寺は焼失したが、大内弘幸が8年後の
  正平4年(1349)再建した。この釈迦如来坐像はこの時造られたものと思われる。】 
  (現地解説板より)       


この解説板の設置年月日が書いてないけど、あまり最近のものではないみたい。
というのも、平成12年にこの釈迦如来様の精査がなされた際、
墨書から永正元年(1504)に義興さんが京都の仏師に造らせて奉納したことが
判明してるのだ。

この時の調査の様子を菜香亭で買ったDVDで観たんだけど、
ファイバースコープを使って墨書が映し出されてて、「義興」の文字が
はっきり読めた。

永正元年といえば、前将軍・足利義尹(よしただ)が山口に転がり込んで5年目、
ちょうど山口滞在の折り返し地点にあたる。

たとえばその3年前には、義興さんは九州退治の祈願をして
妙見社に重代の剣・鳶切を奉納したという記録などもあるので、
もしかしたら釈迦如来様も義材がらみの奉納かもしれないね。

ご本尊様ですので、かつては当然本堂におわした。
現在は、龍福寺の本堂となっているのがそれ「大内氏館(5)」を見てね)。


そもそも妙見社とは、「山口編(21)」に引用した解説の通り、
北極星を神とした天帝思想に由来する信仰。 

そこに道教・密教・陰陽道などが混ざり合い、
妙見菩薩はお釈迦様の化身として位置づけられていたそうな。

釈迦如来様の脇侍(わきじ)はおおむね普賢菩薩・文殊菩薩と決まっており、
興隆寺ではさらに四天王も従えていたので、かつて本堂では三間あったというが、
現在の須弥壇は一間。


向かって左側には、木像がある。


        山口・興隆寺26



どなたとは書いてなかった気がするんだけど、
場所的に興隆寺の中興上人・行海和尚様かな?

この木像もそうだけど、内部はこんな風に↓白くなってる部分とか多くて、
ピカピカのキラキラではなかったんだけど、意匠は独特。
例のごとく、上ばかり見てしばらく呆けてたのは言うまでもない(笑)。
この白いのって、カビ?


         山口・興隆寺24


         山口・興隆寺22



         山口・興隆寺23



         山口・興隆寺30
 

江戸期のものってよりは、室町って言った方がしっくりくるような
デザインだけどな・・・
一部彩色が残ってるけど、かつてはかなり華やかなお堂だったんでしょうね。



さて、あまり長居しても悪いので、中興堂を出て妙見社の方へ。


       山口・興隆寺43


        
妙見様は北極星、北極星は北にある。
北の方角は四神でいうと、玄武。
玄武は亀に蛇が巻きついてたり、亀の尾が蛇になってる姿で描かれる。

妙見様への信仰が篤かった大内氏では、政弘の時代、
文明19年7月20日付の大内家壁書で

すっぽんと亀と蛇は、飼っている鷹のエサにしてはならない

とお触れを出している。
面白いよな~泣き笑い


この旅から帰ってしばらくしてから、
いい加減郷土史もやらなきゃ・・・と少し相馬氏のことを勉強し始めたんだけど、
相馬氏も妙見様を崇拝してたことがわかったので、
以後は私も妙見様を信仰することにしました(←動機が不純)。

 
現在の興隆寺では、16世紀頃の作とみられている
絹本着色の「妙見菩薩像」を所蔵してるんだけど、
この絵に描かれた妙見様は、ふくよかで生え際のラインもかなり上までいっちゃってる、
オジサマのお姿・・・

けど、私には妙見様といったら、もうこの姿しか思い浮かばないよ~(笑)。
ちなみに、「妙見菩薩像」は雪舟の弟子の作と伝えられている。



妙見様は大内家の氏神様だから、当然っちゃ当然だけど、
歴代当主と妙見社との関わりは深い。

たとえば、和泉守護だった25代・義弘は、和泉に妙見社を勧請。
大鎧の左袖に「妙見大菩薩」と書かれた札を付けた義弘の騎馬画像が残る。

政弘は応仁の乱の最中、陣中に妙見社を勧請。その9ヶ月後、乱はめでたく終結したと。
霊験あらたかじゃのう・・・

その他、誰々が参詣しただの、誰々が何かを奉納しただの、
って記録は沢山ある。


そんな妙見社で行われる二月会は、大内家の年中行事の中でも
最大級のイベントで、かなり盛大に行われたらしい。
「山口編(21)」の解説板もあわせてご覧下さい)

大内氏の栄えた頃には、パンピーは妙見社には参拝できなかったそうだけど、
この日は一般公開された。
通常入ることのできなかった女性も、この日だけはオッケーグッド

二月会の時には、山内で木を切ったり石築地に上がることが禁止されている。

また築地か泣き笑い
山口の民は、皆そんなに築地に上がってたのか?(笑)
いやいや、それだけ皆、このイベントを楽しみにしてたんだよな。


二月会の責任者であり世話役の大頭・脇頭・三頭は、
イベントの費用を負担する決まりだった。

大内家の家臣ももちろんこの大切なお役目を仰せつかったが、
永正12年(1515)などは筑前と豊前の国人が大頭・脇頭・三頭のすべてに指名されており、
外様の金で本国の大事なお祭りが行われた年もあった様子。


二月会の中での目玉が、歩射(ぶしゃ)と童舞(わらわまい)。

歩射は、6人が神前で大的を射る神事。
二月会じゃないけど、明治初期に描かれた「山口名称旧蹟図絵」には
築山神社での歩射の絵があり、バックには大内菱と一文字三星(毛利家家紋)の
幕がかかっている。

毛利家でも興隆寺の保護をしており、二月会はそのまま引き継がれたらしい。


そして二月会のクライマックスが、童舞。
8人で舞を踊るそうなんだけど、盛見がこの童舞の衣装を京に注文した記録が残っており、
8人分でお代は200貫文。
現在の額に換算すると、約2,000万円に相当するというからすごいびっくり

え~、単純計算で一人250万の衣装か・・・
さすが、おかねもちの大内氏きらきら

さぞかし当時は華やかなものだったでしょうね。
民衆に人気があるのも、道理だよな・・・


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最終更新日  2012年08月18日 18時37分39秒
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