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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年09月16日
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カテゴリ:旅日記(中国)
こちらが、庫裏の外観。


       三原・法常寺31


       三原・法常寺32


破風、でけえ~!!

日本人の破風好きは以前に岡山城シリーズで少し書いたけど、
江戸期頃になると破風はよりデカいものが好まれ、
破風を大きく造ることのできる大工が有能とされたそうな。

ちょっと側面の大棟側の写真がないからよくわからないけど、
なんか錣葺(しころぶき)っぽい・・・


ちなみに、日本建築は建物の向きによって呼び方が違います。

建物の正面から見て、大棟が左右にわたってる場合が「平入り(ひらいり)」。
例えば、米山寺の本堂。


        三原・米山寺21(大棟)



これに対して、法常寺の庫裏は正面から見て棟が前後にわたってるでしょ。
こちらを「妻入り(つまいり)」という。

妻入りの場合は、やっぱり妻飾りに目がいくから、
ここの装飾に力を入れるらしい。

法常寺の庫裏の創建や改修についてはわからないけど、
たぶんそれなりに古い建物だと思う。
綺麗で新しく見えるけどね。



境内であと残すのは、隆景の小祠。

開山堂での余韻で幸せ一杯な気分で、一段下がった小祠へと向かう。


       三原・法常寺38・隆景社


ああ・・・又四郎(隆景の別名)大明神様、
幸せな時間をありがとうございます
音符


しょっぱなからこんなラッキーな体験をして、
疲れたとか具合悪いとか言ってる場合じゃないよ。
頑張らなくっちゃダッシュと俄然やる気が出た。


しかし、何かすごい話ばっかりだったな~。

三原に寺は数多くあれど、観光案内所に置いてあるパンフレットとかには、
隆景の墓のある米山寺だとか、城の移築門のある寺社しかピックアップされてない。

それ以外の表向き地味なスポットに行く場合、
何と言っても実際に行った方の訪問記が重要になってくる。

ところが、法常寺の訪問記は実に少ないのだ~。

広大なインターネットの世界を隅から隅まで見た訳じゃないけど、
とにかく少ない。

隆景の葬儀と荼毘の場所と知ってて法常寺を訪れる歴史好きも
ほんの数人いたけど、それ以外は街道歩きか寺社巡りが目的の人。
その3者をあわせても、実に少ない。


檀家さんとか、寺主催のイベントに参加するような関係者を除き、
純粋な拝観目的で法常寺を訪れる人の実数はわからないし、
拝観者みんなが訪問記をネットで公開してる訳じゃないのはわかってるけど、
訪問記はある程度は実数を反映するからね。

比較するようで失礼だけど、例えば米山寺あたりと比べたら、
実際に法常寺を訪れる人は相当少ないんだと思う。

ゆえに、開山堂で奥様が語ってくれたような内容は、
誰もネット上で公開していない。

竹原小早川家の菩提寺だからこそ伝えられてきたような貴重な話を
聞かせていただいたこの感動・・・
ホントは、自分一人の胸にしまっておきたいな~ともちょっと思ったけど、
それじゃ法常寺の紹介にならないからな雫



さて、奥様にいただいた法常寺の沿革を記した資料、
こちらにも興味深い事が色々書いてある。
以下の引用はすべて『東日山 法常寺誌』からです。


まず、創建については

 【沼田の庄惣地頭職であった小早川家第四代茂平公が承久3年(1221)
 都宇竹原地頭となり、この職を引継いだ四男景平公は、正嘉2年(1258)新庄木村城を
 居城とし、以後代を重ね、十三代興景公に至る約3百年間地頭職を務めた間、
 木村山城北方の山麓に位置する東日山法輪常転禅寺(天台宗)を菩提所として
 歴代のお墓を安置したと伝えられている。】

とある。

竹原小早川興景は、隆景の先代。
隆景以前の小早川家については、歴史好きでも
安芸・備後あたりの国人衆に詳しい人とかでないと
あんまり知ってる人はいないんじゃないかと思うけど、
竹原家は隆景の一代前までで約300年。

法輪常転禅寺の創建がはっきり何年とは書いてないけど、
景平が竹原に移ってきた頃を創建時期とすれば、
寺の歴史はトータルで大体750年くらいになる。

長いな~。
古いな~。


 【中国路は防長の大内氏の庇護のもと、山口に石屋真梁を開山とする大寧寺・泰雲寺があり、
  その法孫が次々と開山している。(中略)

  石屋師の(中略)五代法孫で洞雲寺六世になる大休登懌師の時、竹原小早川家十三代
  興景公が天台宗の法輪常転禅寺を曹洞宗に改宗(天文8年、1539)し、
  師を開山に招いて寺名を法常寺とする。大休師は自分の師の天庵宗春師(洞雲寺五世)を
  開山(勧請開山)とし、自分は二世(創業始祖)となる。】


石屋真梁(せきおくしんりょう)および、その法孫たちが開山となった寺には、
有名なものも多い。
例えば、

 ・大寧寺(長門市)・・大内義隆終焉の地。関東管領・上杉憲実もここで最期を迎える。
 ・泰雲寺(山口市)・・もと闢雲(びゃくうん)禅寺といい、大内教弘の菩提寺。
              のちに隆景夫妻の菩提寺となり、隆景の法名より寺号をあらためる。
 ・洞雲寺(廿日市市)・・陶隆房・穂井田元清(元就四男)などの墓がある。
 ・龍文寺(周南市)・・陶氏菩提寺。

なんてね。


禅の宗派にも色々あるけど、「臨済将軍曹洞土民」という言葉があるそうで、
臨済宗が中央の権力と結びついて発展したのとは対照的に、
曹洞宗は地方の武家や一般庶民などに広まった。

西日本においては、大内氏と島津氏が特に有力なスポンサーだったという。

そして中国から九州にかけて、上記のような主だった寺の末寺が
ものすごく沢山できたそうなんだけど、それらの多くは
金属資源の生産地、流通の中継となる場所および港の近くに造られたという。

教線を伸ばしたい寺と、その教えや僧を活用して飛躍したい
地方武士とのタイアップって感じかな。


ただ、大内氏の場合は歴代当主は臨済宗への崇敬が
篤かったともいわれるけどね。

まあ、義隆を除く歴代当主はみんな在京してたから、
臨済と全く無関係って訳にもいかないでしょうし・・・

個人的信仰(?)の臨済以外にも、政治的意図やら何やらで曹洞宗の保護も
積極的にしていたって事なのかな。

なんといっても当時の僧は、言葉とか幅広い知識などで、
外交や貿易には欠かせない存在。
遣明船の場合なんかは、正使はほとんどが僧侶だしね。


だから、大内氏が勢力を張った地域で曹洞宗のお寺を見かけたら、
往時の大内氏と曹洞宗のエネルギーを思い浮かべてくださいね(笑)。


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最終更新日  2015年04月10日 23時17分28秒
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